1、災害時の対応
非常時に求められること
1940年、昭和15年1月、静岡市で発生した大火災は、13時間以上、燃え続け、罹災者は2万8,000人以上にのぼった。おぐら やすおみは、静岡市役所の要請に応じ、トラック50台編成の復興救援隊を派遣した。ガソリン統制下、市から救援隊に支給されるガソリンは貴重だったが、康臣は、それを復興活動以外に使うことを許さなかった。その35年後の1975年、社長に就任していたおぐら まさおは、社内報のコラムにこう綴っている。「世の中にはいろいろな特殊なケースがあり、規則を作ったときには考えられなかったような場面がでてくることがある。中略。では、いったい何を基準にものを考えたらよいのだろうか。私はそれは良識だと思う。中略。とくに非常態勢のときには、それなりの考え方や行動があってこそ、人間らしい社会といえるのではなかろうか」。
社会的インフラを担う責任を自覚し、社員ひとりひとりの良識ある判断を重視していくこと。時代が移り変わっても、非常事態における判断と行動は一貫している。
被災地支援のあゆみ
災害が起きたとき、荷物をどのようにお届けするか。ヤマトは、これまでさまざまな災害に直面し、独自の取り組みをおこなってきた。
1982年、九州北西部を襲った、7月豪雨では、被災地宛のたっきゅうびん料金を、他社に先がけて半額に、1984年の、長野県西部地震では、対策本部宛の同料金を無料にした。1991年、平成3年の、雲仙普賢岳噴火にあたっては、必要な物資の輸送を無償でおこない、被災地の引越は半額で引き受けた。普賢岳のある島原は、土石流が日常生活を妨げた。少しの雨でも国道は通行止めになるため、 SD は、朝の天気の状態を見て、ヘルメットやマスクを持参して、荷物を届け続けた。
1993年7月に発生した、北海道 南西沖 地震では、奥尻営業所の社員の家族に犠牲者が出て、営業所は全壊し、車両は津波で流出した。ヤマト運輸は翌日に対策本部を設置し、輸送協力を北海道庁と日本赤十字社に申しいれ、避難所への救援物資の輸送活動に加わった。プレハブ施設で営業を再開した奥尻営業所では、奥尻町の個人発着の荷物を無料で配送した。
阪神 淡路大震災での現場完結型の判断
1995年1月17日の、阪神 淡路大震災では、社員1名と、家族13名が犠牲になっている。ヤマト運輸本社では地震発生直後から、対策本部を立ち上げて情報収集をおこなった。一方、被災地では、本社の指示を待つことなく、社員が自発的に行動を開始していた。行方不明者の捜索や、被災状況の確認を手分けしておこない、自分たちで窮地を乗り切ろうとしたのだ。炊き出し、ミルクやおむつ、生理用品の調達も自主的におこなった。甚大な被害を受けた神戸市長田区にある神戸兵庫営業所には、四国ヤマト運輸が運んだ、温泉の湯を張った仮設風呂も設置された。さらに、地震発生から約1カ月後には、住居を失った社員と家族が、会社が準備した仮設住宅に入居を始めている。公的な仮設住宅供給に先がけての取り組みだった。地域のボランティア活動は、全国の社員が応援にかけつけた。こうした支援を受け、被災者でもある、現地の社員は被災地を歩き、お客さまの避難先リストなどを作成し、営業再開にこぎつけることができた。
2004年の、新潟県チュウエツ地震でも、早急な安否確認と営業再開が実現した。また、地震発生直後から、長野主管支店は、十日町市が孤立する可能性を予測して、準備を進めていた。その結果、新潟県十日町市からの協力要請を受け、すぐに救援物資輸送をおこなっている。
東日本大震災の復興支援活動
2011年3月11日14時46分、東北地方 太平洋沖で地震が発生した。ヤマト運輸本社では、労使トップによる会議がおこなわれていたが、即座に中断し、4年前に策定した、ヤマト運輸本社 地震対策マニュアルに則って、木川眞 ヤマト運輸社長を本部長とする、地震対策本部を設置。ヤマト グループの東北での被災状況は、社員とその家族、クロネコ メイト合わせて死者5名、施設全壊、9カ所、しゃりょう全損58台。関東でも行方不明者が出て、部分損壊した施設もあった。被災地では、安全確保と、社員の安否確認を進める一方で、救援物資輸送が始まった。過去の震災に比べて顕著だったのがガソリン不足。燃料確保は困難を極めた。
そうした中、社員たちはできることを探し、実行に移していた。避難所に食糧がないと聞けば、農家などから米を入手して、おにぎりの炊き出しをおこなったり、役所にボランティア登録をして救援物資の仕分けをするなど、自治体や自衛隊と協力。物流のプロとして、積み上げてきたノウハウを惜しみなく注ぎ込んで、物資の分類、在庫管理、配送計画の決定、そして、配送も担った。荷物をお届けする先の家が津波で流されていたら、普段の会話から知り得ていた、高台にある親族の家に運ぶなど、緊急じならではの自発的な工夫もあった。岩手主管 支店長が受けた指示は、「とりあえずやってみろ」、「困った人がいたら助けろ」のふたつだけ。ミヤギ主管支店長は、それが使命であるかのごとく人助けする社員を誇らしく感じていた。「ヤマトは我なり」の実践がそこにはあった。
たっきゅうびんネットワークの復旧には10日間を要した。福島県いわき市では、「宅配の人が動き出すとほっとする」、同県白河市では「たっきゅうびん屋さんがないと、うちは生活できない」という声を聞いた。センターに、足の不自由な高齢者が台車を押してやってきたことがあった。集配は再開できず、センターでの受け渡しだけをおこなっていた時期だ。「もう我慢ができない」と SD が上司に詰め寄った。取りに来ていただくことが忍びないという。「配達に行かせてください」と彼は訴えた。お客さまの元に荷物を届けて、初めて、「ありがとう」という言葉がいただけることを改めて実感したのである。
本社も、こうした活動の支援のため、社員500人、車両200台体制の救援物資輸送協力隊を結成し、グループを挙げて、被災地での輸送協力活動をおこなうことにした。背景には、復興には息の長い支援が必要、という考えがあった。ボランティア活動の実施や、東日本大震災、生活、産業基盤復興再生募金として、たっきゅうびん1個につき10円の寄付を決めた。寄付金の使い道は、たっきゅうびんを育てていただいた恩返しとして、被災地の水産業、農業の再生と、その地域の生活を支える病院や、保育所などの社会的インフラの復興に限ることにした。寄付総額は募金分なども含めると、142億7,426万4,524円に達し、全額が、ヤマト福祉財団をとおして、岩手県の野田村保育所の高台への移転再建、宮城県南三陸町での仮設魚市場の建設、福島県小野町の小野町 地方綜合病院の移転再建など、31の事業に使われた。
熊本地震での救援物資輸送の取り組み
2016年4月、熊本地震の発生後には、救援物資が県庁に集中したことによる混乱を受け、ヤマト運輸は熊本県へ救援物資の輸送を提案した。東日本大震災の発生直後、社内救援物資は、本社からの、これ 送った リスト、被災地からの、これ 欲しい リスト を照合することで、刻々と変わるニーズに合わせて送られており、この経験が生かされた。
たっきゅうびんはお客さまのライフラインになっている。はからずも災害をとおして、このことを改めて認識させられた。短時間で営業を再開することは、いわば社会的責任なのだ。そのためにも、世のため、人のため、という思いは、今後も変わることなく受け継がれていく。
福祉現場の経営改革へ
そこに新しい活動が加わったのは、1995年の阪神、淡路大震災がきっかけだった。財団は被災した共同作業所を調査。昌男も実際に共同作業所を訪れる機会を得た。そこで昌男が見たのは、安い下請け仕事と、リサイクル業務に励む障害者の姿。儲かっていないことは明らかだった。収入を得るのではなく、デイケアの場として共同作業所を利用している障害者が多いこともわかった。支払われる月給が1万円以下というケースもざらだった。そこで、共同作業所が、障害者が自立するに足る給料を払えるようになるため、経営の視点を持ち込むことにした。1996年から、昌男は全国を行脚し、無料で、パワーアップ セミナーと題した経営塾を開催した。目的は、共同作業所の運営者を対象に、1万円からの脱却をはかれるよう、経営のノウハウを教えることだ。福祉関係者には、金儲けを嫌う人も少なくない。考えを変えてもらうため、「月給1万円で雇うということは、障害者を飯の種にしているということで、いいことどころか、悪いことだ」とまで踏み込むこともあった。ただし、昌男は自分は福祉のプロではないことを強く自覚していた。個々の障害者に何ができるのかは、福祉のプロに考えてもらい、自分はその経営のための方法を、無料で伝えることに徹した。
そうした中、1998年に、スワンベーカリーの1号店がオープンした。パンづくりも、接客も、障害者がおこなう店だ。タカキ ベーカリーの冷凍パン生地の存在を知り、障害者にもおいしいパンが焼けると気づいた昌男が、同社に協力を頼み、実現したもので、障害者が自立するための職場のモデルとなった。
ヤマト福祉財団のさらなる活動
ヤマト福祉財団は、2000年に、ヤマト福祉財団賞を創設した。共同作業所のような障害者施設や、民間企業で、障害者の就労機会を提供した個人に贈るもので、せい賞は、彫塑家のあめのみや あつしが制作したブロンズ像、副賞が100万円だ。単なる記念品ではなく、芸術作品にしてほしいと、像をせい賞にすることを昌男は強く希望したという。昌男の死後の2005年、賞はその名を、ヤマト福祉財団 おぐら まさお賞へと変えた。
2004年には、障害者のクロネコ メール便配達事業、現在の障害者のクロネコ DM 便配達事業が始まった。障害者に、クロネコ メイトとして、クロネコ メール便を配達してもらうのだ。2005年には、社会福祉法人ヤマト自立センターが設立され、そのごも通所型就労移行支援事業所スワン工舎新座、スワン工舎羽田がオープンした。昌男の始めたパワーアップ セミナーは、2010年に、パワーアップ フォーラムと改称し、多くの人にその目的を伝えるために規模を大きくした。2013年には障害者の給料増額に取り組むことを決めた施設が、自ら事業改革プランをつくり、実践するための資金を得られる、夢へのかけ橋プロジェクトをスタートさせた。そこでの成功事例は、パワーアップ フォーラムでも報告され、後進を刺激する存在にもなっている。単なる労働力ではなく、意識して戦力として障害者を雇用しよう。こうした昌男の思いは、一歩一歩着実に実を結んでいる。