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第4部、語り継ぎたい物語、3。一番身近で、愛される企業をめざして

第9章、思いやりの物語

ヤマトグループは、地域社会から信頼される企業として、生活利便性向上に貢献する企業として、さらには、社会的インフラを担うたっきゅうびんを主力にする企業として、その社会的責任を果たすために、これまでに、さまざまな取り組みをおこなってきた。社会、安全、環境の分野における、お客さまの信頼と期待に応える活動とは。

2008年の新聞広告にも取り上げた、クロネコヤマト環境教室。

1、ふれあいをお届けする

音楽を届けるたっきゅうびん

全国のお客さまに、本格的なクラシック音楽を届けたい。音楽たっきゅうびんは、その思いで、1986年、昭和61年に始まり、現在まで続く、社会貢献活動だ。地方のお客さまや、小さなお子さんのいるかたなど、フル オーケストラでの生演奏を、ゆっくりと楽しむ機会の少ない方々に、生のコンサートをお届けする企画である。

初年は、石川厚生年金会館での開催を皮切りに、広島、福岡、名古屋と巡った。東京、大阪が含まれていないのは、二大都市には、クラシックを聴く環境が整っているから。入場料は無料で、親子をペアで招待した。演奏は地元のオーケストラに担当してもらう。司会は、ヤマト運輸の シーエム に出演していた女優、和泉雅子さんや、ソプラノ歌手の島田祐子さん、女優の宮崎美子さんらが務めた。「子どものときから、こんな、すばらしい本物の音楽を聴けるなんて最高ですね。これが楽しい思い出になって、クラシックを難しく考えずに、外国の子どもたちのように、肌で感じる音楽になるといいですね」と、のちに和泉さんは語っている。ロビーでは交通遺児のためのチャリティー募金がおこなわれた。これは現在も続き、小さな子どもが、握りしめた小銭を募金箱へ いれる様子が、各地の会場で見られる。

音楽たっきゅうびんは、これまでにないコンサートだけに、つくり上げる過程には戸惑いもあった。本格的なクラシック音楽を届けたいという思いから、一流の演奏家や、楽団に出演を依頼するのだが、おしゃべりをしたり、泣いたりする子どもがいることを気にするかたもいた。運営側も、無料招待であるがゆえに、実際の来場者数の予測が難しい。それでも、満足して帰って行く親子の姿を見ると、そんな苦労も吹き飛んだ。

スタートから5年めとなる1990年、平成2年には、大阪国際 花と緑の博覧会会場でも開催され、多くの人を集めた。指揮者の 石丸ひろしさんに代わり、ゲストの春風亭小朝さんが指揮棒を振るシーンも見られた。

東京で初めて開催されたのは100回目。1995年7月31日、赤坂のサントリーホールで、昼夜2回の公演をおこなった。約4000人の定員に対して、2万5000通以上の応募が集まるほどの人気となり、大きな盛り上がりを見せた。

そのご、子どもたちが持参した楽器で、オーケストラと一緒に演奏するプログラムも加わり、2006年には、クロネコ ファミリー コンサートと新たな名称がつけられた。

2008年からは世界的な指揮者である、飯森 ノリチカさんが、音楽たっきゅうびん、すべての公演で指揮台に立っている。音楽たっきゅうびんを、ライフワークと語る飯森さんは、オーケストラを、コンサート ホールの外へ連れ出す活動にも主体的にかかわっている。2010年には、なかなか本公演には行けない地域の方々を対象に、小編成オーケストラによる、アウトリーチ公演も始まった。奏者数は限られるものの、小学校や特別支援学校、公民館などに赴き、本物のクラシック コンサートをお届けしている。初回の開催地は、福島県の南東部、阿武隈高地に位置する、平田村にある、全校児童数44名の小学校だった。

音楽たっきゅうびんからは合唱組曲も生まれている。はやし のぞむ さん、作詩、上田真樹さん、作曲による、あめつちのうた、だ。初演は2013年の公演。以来、全国の合唱団で歌われるようになった。

2015年、音楽たっきゅうびんの30周年を記念するコンサートが、前述のサントリー ホールで開かれた。このとき、東京交響楽団を前に指揮をするというコーナーで、指揮棒を握った来場者のひとりは、子どものころ、広島で音楽たっきゅうびんのコンサートを楽しんだことのある女性だった。同様に、かつて来場されたかたの中には、親になって自分の子どもを連れてこられたご家族もたくさんいる。

ドッジボール大会で子どもたちの心身を育成

スポーツの楽しさも全国に届けてきた。1992年、小学生のドッジボール大会への特別協賛を始めた。大会名は、クロネコ カップ。第1回大会への参加申込は、全国で800チーム。選抜された24チームは熱戦を繰り広げた。

もともと、ドッジボールは、小学生にはおなじみのスポーツだが、当初は参加チーム集めに苦労した。全国各地で SD が小学校に案内状を配布した。

地区予選は、主管支店が主体となって開催するため、運営や審判の資格を取って参加する社員が増えた。やがて、全国の審判員のうち、ヤマト運輸の社員が占める割合が増え、佐賀県や滋賀県では、県内の審判員のうち、9割以上がヤマト運輸の社員だった時期もある。

参加チームが毎年約2800を超え、全国に届ける、という役割を終えたと判断して、2004年、第13回大会をもって、ヤマト運輸は、この特別協賛の役目を終えた。

現場から生まれた、こども交通安全教室

子どもから大人まで、誰もが利用する公道を使わなくては、ヤマト グループの仕事は成り立たない。こうした事情もあって、ヤマト運輸の各営業所は、それぞれの判断で、通学路での見守り活動や、幼稚園や、小学校で開かれる交通安全教室に参加してきた。その成果が感じられる出来事が、広島の住宅街であった。ある SD が配達を終えて車に戻ると、小さな子どもがふたり、待ち構えていた。そして、「車の下にボールがはいったので取ってくれませんか」と言う。自分たちで車の下に、入り込まなかったのは、2年前、幼稚園での交通安全教室で SD から、たっきゅうびんの車の下には はいらないように、と言われていたのを覚えていたからだった。

そのご、1998年から、子ども交通安全教室、現在のこども交通安全教室として、全社で取り組む、社会貢献活動へと発展した。翌年に、テーマソング、くるまはくるま、を作成すると、大人気に。振付もつけて、体操としても楽しんでもらえるようにした。

2007年には、保育園、幼稚園、小学校に加えて、特別支援学校でも開催するようになり、2019年3月には、累計の開催回数が3万回を超え、参加者も320万人を超えるまでになった。

子どもたちとのさらなるかかわり

世の中の変化、社会の要請に応じる形で広げてきた社会貢献活動もある。

たとえば、クロネコ ヤマト環境教室は、2005年10月に始まり、2019年3月には累計の参加者数が、240000人を超えている。まずは、副読本や、スライドなどで学習し、そのご、低公害シャなどを見学してもらうなど、各職場で伝えかたを工夫している。

1992年には、小学校5年生の社会科に、運輸と通信が加えられたことから、社会科見学の申しいれが増えることを予想し、パンフレットやビデオを用意して、体制を整えた。

このほかにも、子どもたちと触れあう機会を増やしてきた。子どもの職業、社会体験施設である、キッザニア東京、のちに、2006年、2009年、キッザニア甲子園に出展し、子どもたちが SD の仕事を体験できるプログラムを提供。車に加えて、台車での集配を体験してもらえるようにし、たっきゅうびんの集配のほか、交通ルールの厳守なども学んでもらう。

2006年から2017年までは、中高生を対象に、仕事を通じて、社会とのかかわりを体験してもらう、中高生経営セミナー (のちに、ヤマト運輸高校生経営セミナーに変更) を実施した。2008年からは、離島で暮らす中学生による野球の全国大会、全国離島交流 中学生野球大会 (離島甲子園) に協賛し、参加する選手の荷物の配送などを請け負っている。

北海道、釧路公演での、出演者のみなさんへの花束贈呈。1989年。右から2番目が和泉雅子さん。

ロビーでの、交通遺児チャリティー募金活動の様子。2006年。

地元合唱団と、新日本フィル ハーモニー交響楽団の共演。2013年。

指揮者の飯森のりちかさんと、演奏に参加した子どもたち。2018年。

小郡特別支援学校でおこなわれた、アウトリーチ公演。2018年。

音楽たっきゅうびん開始翌年の広島公演。1987年。

音楽たっきゅうびん第1回公演プログラム、1986年と、1987年の音楽たっきゅうびん公演で実際に使われた台本。

募金をしてくださったかたにさしあげていた下敷き。絵柄は、音楽たっきゅうびんのメイン ビジュアルとして使われた、ネコのオーケストラ。

第1回、クロネコ カップ、参加募集ポスター。1992年。

第1回、クロネコ カップの模様。1992年。

第1回、クロネコ カップのメダルと、トロフィー。1992年。

こども交通安全教室では、実際の集配シャを使って指導する。2009年。

沖縄ヤマト運輸がおこなった、こども交通安全教室。2011年。

ヤマト (中国) 運輸と、ヤマト国際物流がおこなった、上海での、こども交通安全教室。2017年。

クロネコヤマト環境教室の様子。

キッザニア東京での、SD 体験。2018年。

高校生経営セミナーでは、発表まで、各地域のヤマト運輸の社員が、メンターとしてサポートする。2015年。

第3回、離島甲子園、種子島大会のポスター。2010年。

2、環境への取り組み

ヤマト グループの環境保護活動、ネコロジー

1991年、平成3年、ヤマト運輸内に地球環境委員会を設置した。それまでも環境活動はおこなってきたが、委員会の設置により、事業における環境活動を、より強化することになった。翌年には、国連環境開発会議 (地球サミット) が開催され、世界規模で環境保全が大きな課題となった。そのご、2000年に初めて、環境報告書、現在のヤマト グループ CSR 報告書を発行し、2003年に、環境保護宣言 (2014年改訂) および、ヤマト運輸地球温暖化防止目標を制定するなど、本格的な取り組みを進めた。

2011年の東日本大震災をきっかけに、省エネや環境負荷低減への関心が高まり、社内でも環境活動を見直すこととなった。そして、2012年、ヤマト グループの環境保護における理念を、ヤマトを象徴するクロネコとエコロジーとを組み合わせて、ネコロジーと名付け、グループ全社員で共有した。

ネコロジーとは、第一に、社員ひとりひとりが常に環境保護の意識をもって、日々の業務に取り組むこと。第二に、物流には欠かせない、包む、運ぶ、届けるだけではなく、その他、さまざまな事業を徹底的にエコロジー化すること。そして第三に、ヤマト グループのサービスをご利用いただくことが、お客さまの環境保護の思いにつながるように、常に環境に優しいサービスを考えて、提供し続けることだ。

エコ ドライブの取り組み

集配とは切っても切り離せない車。その運転にも工夫を凝らしてきた。1985年、昭和60年、省エネルギーと車の盗難防止のため、社員に腰ひもキーホルダーを配布。下車して作業をする際にはエンジンを切ることを徹底した。このアイデアは、のちに東京都にも参考にされ、アイドリング ストップ ロープとして、都内の約1,500社の運送関連企業に配布された。

2004年、平成16年には発車時のローギア発進と加速時の早めのシフト アップ、通常走行時の等速運転、減速時のエンジン ブレーキ活用のみっつを柱とした、エコ ドライブをグループ全体で開始した。

低公害シャの進化

低公害シャへの取り組みも、他社にさきんじて、おこなってきた。試験導入を含めて、主な事例としては、1986年、昭和61年のメタノールシャ、1991年、平成3年の電気自動車、1993年の LPG シャとハイブリッド車、1997年のシー エヌ ジー シャ、そして、2002年のハイブリッド車、2007年の燃料電池シャなどが挙げられる。

1998年の低公害シャ導入計画の発表後は、計画を早めながらその取り組みを進め、2019年3月末にはヤマト グループ全体で、低公害シャの占める割合は57.7パーセント、実数では3万1,292台となっている。

車を使用しない集配で生まれたメリット

自動車を使わないという試みも、1983年、昭和58年に始まっていた。場所は鹿児島だ。県で一番の繁華街、天文館のほとんどの商店街は、午前11時以降は車両進入禁止。当初は近くの路上に車を止め、駐車違反を気にしながら、台車を使って集配をおこなっていた。そこで、気兼ねなく集配に集中できるよう、台車よりも容量が大きく、営業所から引いていける、じんりきたっきゅうびんしゃを開発した。製作したのは、普段は車両の整備をおこなう社員だった。

東京でも、台車を中心に集配業務をおこなうサテライト センターを増やしてきた。2006年、平成18年には、都しん部を担当するヤマト運輸、東東京主管支店管下の135センターのうち、121センターが自動車を使用しなくなった。2002年ごろからは、リヤカーつき電動自転車 (新スリーター) を採用。導入前には積載量や効率に不安もあったが、実際に使い始めてみると、小回りが利き、集配のスピードが上がり、地域のお客さまとのコミュニケーションも以前よりずっと豊かになるなど、メリットが際立った。

モーダルシフトの利用拡大

CO ツー排出量を大幅に削減するため、1987年、昭和62年からたっきゅうびんの幹線輸送の一部を、鉄道やフェリーに切り替え、業界内でも先駆的にモーダル シフトを進めてきた。

鉄道コンテナ輸送で初めて、30フィートコンテナを導入し、輸送力を確保。そのご、両側面から荷役が可能なウイング仕様の同級コンテナも共同開発した。2000年代には、本州と北海道を結ぶ長距離フェリー、4航路で無人、航走システムを確立し、東京、福岡間で、冷蔵、冷凍、2温度帯対応の鉄道クール コンテナの試験運用にも取り組むなど、トラック以外の輸送区間を拡大した。

2013年、平成25年には、ネコロジーのロゴを鉄道コンテナにデザインし、今後も、お客さまとともに環境にやさしい物流を構築していく思いをこめた。

京都プロジェクトの取り組み

京都の地で、2011年5月、新たな取り組みとして、京都プロジェクトが始まった。そのひとつが京福電気鉄道と協業し、京都で唯一の路面電車で、観光客にも人気の嵐山線、通称、嵐電を集配に使うというものだ。さいいん 車庫から出る列車の1両を借り切り、集配用台車を載せる。駅に着いたら台車を下ろし、待機していた SD が、台車ごとスリーターに積み込んで配達へ向かうという流れだ。話題性は高く、初めての取り組みだったため、担当者は何度も工程を繰り返し、お客さまの信頼を獲得していった。そのごも、ネコマークのプレートをつけた電車は、京都の新しい見どころのひとつとなっている。

初めての、環境報告書。2000年。

ネコロジーのロゴ。

つつむ、運ぶ、とどく、減らす、リサイクル、伝える、つくる、想いのカテゴリーで整理された、ネコロジーのポータル サイト。

腰ひもキーホルダー。2002年。

最初の低公害シャ、メタノールシャ。1986年。

鹿児島、天文館の商店街で使用された、じんりきたっきゅうびんシャ。1983年。

台車が主体の集配拠点、サテライト センター。2000年、東京、銀座2丁目。

リヤカーつき電動自転車での、集配の様子。2015年。

鉄道を使ったモーダル シフト。2014年。

ネコマークのプレートをつけた嵐電車両と、積み込みを待つ台車。2012年。

子どもたちとたっきゅうびんのふれあい。北海道から広島まで、子どもたちの心を運ぶ

1986年、昭和61年、広島平和記念公園の折り鶴が焼失するという事件が起きた。原因は何者かによる放火。これを、遠く北海道で知った登別市立 幌別西小学校の児童は、6年生が中心となって、いつか広島へ贈ろうと折り鶴をつくり始めた。折った鶴の数は230000羽、サイズも長さ2.5メートルほどの束が23個にものぼっていて、学校関係者は、それを、どうしたら傷つけずに運ぶことができるのかを考えていた。

相談を受けた室蘭営業所の SD は、苫小牧支店長に相談の上、引越に使う引き出し用段ボールなどを使っての輸送を決定。計7ケースに納められた折り鶴は、「たっきゅうびんのおじさん、ありがとう、折り鶴をお願いします」という声、全校児童957名と教員、父兄らから見送られ、一路、広島へ向かった。送料はいただかない。広島の営業所も、北の大地からの贈り物を万全の体制で受け取った。

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