1. コンピュータ導入から、 ネコ システムへ
事務機械化の取り組み
業務の効率化、サービスの多様化のために、ヤマトではこれまで、さまざまな業務の機械化、情報システムの開発に取り組んできた。
その最初の一歩は、1960年、昭和35年から、1961年にかけて、事務部門に導入された、モーター駆動の電動タイプライターや、電動計算機である。それらは、当時、宝物のように扱われたという。会計機、 NCR 33 が導入されたのは1961年8月。業務量が増え、人員も年間500人のペースで増加し、効率化は急務だった。特に、給与係の負担が大きく、支給日までの短期間に、多くの計算が必要だった。プログラミングには1年かかったが、NCR 33は導入後、能力を発揮し、1962年の新賃金体系への移行にもスムーズに対応。このご、給与計算のほか、運賃や燃料費、修理費、車両の管理業務も機械化が進む。1964年の東京五輪終了後に景気が下降すると、その目的は、よりスピーディーに、から、コストをセーブし、利益をあげる、へと移るが、機械化の流れはさらに加速した。
コンピュータ導入の黎明期
業務のさらなる合理化、省力化を主眼に、会計機の機能を超えるコンピュータの導入を検討し、まずは、1966年に、コンピュータ処理の外部委託を開始した。やがて、人事統計、アルバイト給与計算などと委託量が増え、費用がかさむようになったことから、再度、本格的に、自社導入の検討が始まる。イザナギ景気の到来も、新規投資を後押しした。
機種の選定にあたっては、役員会や部長会で繰り返し審議され、日立製のハイタック 8210 に決まった。1968年6月の正式導入決定と同時に、社内には電算準備室が発足した。社内にコンピュータの専門家はひとりもおらず、白紙からのスタートだった。1969年6月16日、コンピュータ室の開室式がおこなわれ、おぐら やすおみは、「機械は人間が使うものであって、機械に使われることなく、有効に生かしてほしい。少しの時間でも、人間の何倍もの仕事をしてくれるのだから。ときに負けることなく有効に使用してほしい」と述べた。その言葉を胸に、同年8月には、外部委託先から計算業務を引き取り、自社での処理を始めている。コンピュータ室のスタッフは、主に20代の若手社員。好奇心と気概に満ちた彼らは、寝るまを惜しんで、目の前の仕事に取り組んだ。コンピュータが置かれた部屋は温度調節されている。寒い冬の夜は、そこへ布団を敷いて、仮眠をとることもあった。同業他社に先がけて、コンピュータの導入と、システム開発が進んだ背景には、彼らの奮闘があった。
ネコ システムの誕生。第1次 ネコ システム
1960年代半ば、産業界には、コンピュータでネットワークに接続する、オンライン化の波が押し寄せてきていた。国鉄や日本航空が座席予約用に活用を始めたほか、銀行の預金業務などにも採用されつつあった。ヤマト運輸が、その導入の検討を始めたのは1970年のことだ。オンライン開発委員会が発足し、社長室にもオンライン研究グループが設置された。
当時は、給与計算、売り上げ集計、運賃計算などのデータを、バイク等、人手で本社に搬送して処理をしていた。通運部門の場合は、拠点が東京近辺に集中していたため好都合だったが、路線部門の場合は、東は仙台、西は大阪の営業拠点からデータを集めるのに手間がかかり、その効率化が求められていた。また、このころ、運送業界は、大量一貫輸送へと大きく舵を切りつつあり、オンライン システムは、その行方をも左右すると注目されていた。1972年3月、社長になっていたおぐら まさおは、ひとつの決断をした。新しく発足するコンピュータ部門を独立させ、別会社とすることにしたのだ。「コンピュータをより身近なものに、また一部の持てるもののものでなく、必要とする、すべての人々に役立つ物とするため、企業組織内に押し込めず、独立の組織とし、活躍の場を与えるべきとき」と語った。こうして、1973年1月、ヤマト システム開発株式会社は誕生した。路線事業、通運事業の運賃計算に向けたオンライン システムは、ネコ トータル システム、第1次 ネコ システムと名付けられた。 NEKO は New 、 Economical 、 Kindly、 Online の頭文字。同社のホスト コンピュータと、路線部の地方てんしょがオンラインで結ばれ、てんしょごとに配置されたキー パンチャーが、ドライバーから預かった送り状の各種情報を入力して運用する。1974年2月1日午前10時、ついに、その時を迎えた。昌男が端末のスイッチを押すと、全国48か所の端末に、「祝、オンライン開通」のメッセージが表示され、システムが稼働。このシステムは、人材の有効活用、事務処理の標準化、輸送品質の向上、事務員の意識向上などに貢献した。
1976年のたっきゅうびんの誕生は、情報システムのあり方も変えていく。「情報処理システムの主体はあくまでも人間にあり、コンピュータ主体の考え方に陥ることのないよう、留意してほしい」と、当時、昌男は語ったが、これはかつて康臣が語った、「機械は人間が使うもの」の思いを受け継いでいるといえる。
当初、たっきゅうびんは、コンピュータを使わなくても済む、手作業のシステムとしてスタートした。荷札を兼ねた、ちょうふ式の専用送り状のほかに、ネコ マークのシールを利用し、件数管理、入金管理をおこなった。そのご、シールちょうふ器、ラベラーを導入したが、取扱個数が年間1,000万個を超えた1979年ごろには、コンピュータで処理することが緊急の課題として浮上した。
たっきゅうびん誕生に伴う新たな開発。第2次 ネコ システム
処理すべきデータをいかに早く、かつ正確に入力するか。以後、 ネコ システムの歴史は、スピードと精度を追求する歴史となっていく。そこで注目したのは、バーコードをスキャンする方法。新たに採用されたバーコードつき送り状を荷物に貼り、各拠点に設置された専用端末機、 ネコポスのペン型バーコード リーダーで、送り状番号を読み取って入力できるようにした。バーコードは当時、チェーン展開する店舗などで普及のきざしはあったが、一般の運送業務での利用は画期的だったといえる。こうして開発された、第2次 ネコ システムは、1980年から運用を開始し、1981年の全国ネットのたっきゅうびんオンライン ネットワークの完成を経て、1982年まで、段階的に導入された。
1984年11月16日、世田谷電話局 地下ケーブル火災が発生し、同局管内の全通信回線がストップする事態となった。ヤマト システム開発のマシン室は世田谷区内にあったため、システムは全面停止。完全復旧には5日間を要し、この火災は、電算機センターの分散化、回線の多重化の必要性を世間に印象づけた。同社も1985年、大阪にマシン センターを開設し、バックアップ体制を完成させた。