1、ウォークスルーしゃ、開発秘話
たっきゅうびんにふさわしい車とは
エンジンの馬力よりも、乗っていて働きやすいのが、よい自動車だと思う。おぐら まさおは、荷物を運ぶ車についても、1970年代から注目し、よい車とは何かについて考えてきた。
その原点は、なぜ日本の車はどれも一緒なのか、という疑問にあった。左側通行なので右ハンドル、ドライバーの乗り降りも右から、荷物の積み下ろしは後ろからといった当たり前は、ヤマト運輸の仕事にとって、必ずしも便利ではなかった。車は作業場であり、事務所であり、ときには休憩室でもある。そうした職場として、ふさわしい車があるのではないか、と考えたのだ。
たっきゅうびん事業が始まり、しだいに取扱量が増えると、車はそれまでの650キログラム積みから、1トン積みが主流となっていった。扱う荷物が増えるということは、積み下ろしや乗り降りの回数も増えるということだ。夕方になると、車両後部の跳ね上げドアを閉めるだけでも疲労を感じる SD が増えてきた。昌男は、その疲労感を、車をより良いものに変えることで低減しようと考えた。 SD 視点で車を変えようと思ったのだ。
たっきゅうびん集配しゃ 開発プロジェクト、スタート
昌男は、働きやすい自動車、運転席から外へ出ることなく、後部の荷台へ歩いて移動できる車両の試作を、自動車メーカーに掛け合っていたが、なかなか期待する返事が返ってこない。その一方で、福岡主管支店の主管支店長が、1980年、昭和55年に、新ワイピーエスしゃ、プロジェクト チームを組織し、安全運転と、業務効率向上を両立させる、たっきゅうびん集配シャ 開発プロジェクトに取り組み出した。最初の試作品は、解体した廃車とベニヤ板でつくられた。この完成を知った昌男は、さっそく福岡を訪れた。運転席に乗り、荷台へ移動し、その使い勝手を体感したのだ。そうこうしているうちに、東京への帰りの飛行機の時間が迫ってくる。時間がないと告げられても、昌男はその試作品から離れようとしなかった。「飛行機は次の便がある」と昌男は言った。「けれど、僕がこの車を見る時間は、今しかないんだよ」。
試作品の完成は、新型車両の開発を強力に後押しした。本社で発足した特装シャ開発チームは、他社が断念するなか、採算度外視で協力を申し出てくれた自動車メーカーとともに、1981年に、第1号となる、本格的な試作シャを完成させた。全国の SD の意見が反映されたその車には、ウォークスルーしゃという名前がつけられた。
ウォークスルーしゃの誕生と進化
試作しゃは、安全運転や、スムーズな積み込みが可能か、車は停めやすいかなど、多くの項目を SD がチェックし、改良が加えられて、東京、大阪、福岡で試乗テストがおこなわれた。
このウォークスルーしゃの特徴はまず、車体の左側に設けたスライド ドアから降車できるようにしたこと。これにより、右側降車につきものの車両との事故を防ぐ。スライド ドアは最小限の力で開閉できるようにした。それから、その名前にもなったウォークスルー構造。運転席から後ろの荷台まで、車両内を、腰を曲げずに歩いて移動でき、乗降回数を最小限に抑えられる。座席シートには吸水性の高い素材を採用し、雨の日に濡れたときにも、シートが湿っていないようにした。さらには、盗難防止装置も付けた。ドアはエンジンキーの有無にかかわらず、閉めれば自動的にロックされ、SD 以外は外から開けられない。
試乗テストの結果、ウォークスルーしゃは自動車メーカーの量産ラインに加わることになり、1982年以降、本格的に納車された。海外のトラックを意識した、背が高く直線的なデザインは垢抜けていた。こうしてたっきゅうびんの仕事に合った車は完成したが、昌男の、よいトラックへの熱意がさめることはなかった。協力自動車メーカーでの講演の際には、先方の役員を前に、「メーカーは走ることしか考えていない」と堂々と苦言を呈し、最後に、「どうかよいトラックをつくってください」と締めくくった。ウォークスルーしゃはそのご、リニューアルを積み重ねる。最初のテーマは安全性の向上だった。子どもが下にはいり込みにくい車両、死角の少ない車両をめざした。1999年、平成11年には、運転席から車体の下を見られる通称、ネコ窓の設置や、バック アイ カメラの搭載に加え、荷物の積み下ろしがしやすいように、荷室の床を3センチメートル下げるなど、フル モデル チェンジをおこなった。2007年には、ハイブリッド タイプのウォークスルーしゃも導入するなど、時代に合わせて進化を続けた。現在、ウォークスルーしゃのメーカーでの製造は終了しているが、たっきゅうびんのひとつのシンボルとして、歴史の1ページに刻まれていくだろう。