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第3部、語り継ぎたい物語、2。お客さまの満足を支える仕組みづくり

第7章、仕組みを進化させる物語

お客さまに満足していただけるサービスを世に送り出すことができても、それで終わりではない。サービスの品質を維持、向上していくために、社員の仕事環境をはじめ、新たな発想による商品開発、安全への配慮、作業、集配効率向上などの取り組みを常に進化させていく。本社も、第一線も取り組んできた、さまざまな知恵と工夫のあゆみを追う。

おぐら まさおの講演要旨、よいトラックとは、の直筆原稿コピー。

1、ウォークスルーしゃ、開発秘話

たっきゅうびんにふさわしい車とは

エンジンの馬力よりも、乗っていて働きやすいのが、よい自動車だと思う。おぐら まさおは、荷物を運ぶ車についても、1970年代から注目し、よい車とは何かについて考えてきた。

その原点は、なぜ日本の車はどれも一緒なのか、という疑問にあった。左側通行なので右ハンドル、ドライバーの乗り降りも右から、荷物の積み下ろしは後ろからといった当たり前は、ヤマト運輸の仕事にとって、必ずしも便利ではなかった。車は作業場であり、事務所であり、ときには休憩室でもある。そうした職場として、ふさわしい車があるのではないか、と考えたのだ。

たっきゅうびん事業が始まり、しだいに取扱量が増えると、車はそれまでの650キログラム積みから、1トン積みが主流となっていった。扱う荷物が増えるということは、積み下ろしや乗り降りの回数も増えるということだ。夕方になると、車両後部の跳ね上げドアを閉めるだけでも疲労を感じる SD が増えてきた。昌男は、その疲労感を、車をより良いものに変えることで低減しようと考えた。 SD 視点で車を変えようと思ったのだ。

たっきゅうびん集配しゃ 開発プロジェクト、スタート

昌男は、働きやすい自動車、運転席から外へ出ることなく、後部の荷台へ歩いて移動できる車両の試作を、自動車メーカーに掛け合っていたが、なかなか期待する返事が返ってこない。その一方で、福岡主管支店の主管支店長が、1980年、昭和55年に、新ワイピーエスしゃ、プロジェクト チームを組織し、安全運転と、業務効率向上を両立させる、たっきゅうびん集配シャ 開発プロジェクトに取り組み出した。最初の試作品は、解体した廃車とベニヤ板でつくられた。この完成を知った昌男は、さっそく福岡を訪れた。運転席に乗り、荷台へ移動し、その使い勝手を体感したのだ。そうこうしているうちに、東京への帰りの飛行機の時間が迫ってくる。時間がないと告げられても、昌男はその試作品から離れようとしなかった。「飛行機は次の便がある」と昌男は言った。「けれど、僕がこの車を見る時間は、今しかないんだよ」。

試作品の完成は、新型車両の開発を強力に後押しした。本社で発足した特装シャ開発チームは、他社が断念するなか、採算度外視で協力を申し出てくれた自動車メーカーとともに、1981年に、第1号となる、本格的な試作シャを完成させた。全国の SD の意見が反映されたその車には、ウォークスルーしゃという名前がつけられた。

ウォークスルーしゃの誕生と進化

試作しゃは、安全運転や、スムーズな積み込みが可能か、車は停めやすいかなど、多くの項目を SD がチェックし、改良が加えられて、東京、大阪、福岡で試乗テストがおこなわれた。

このウォークスルーしゃの特徴はまず、車体の左側に設けたスライド ドアから降車できるようにしたこと。これにより、右側降車につきものの車両との事故を防ぐ。スライド ドアは最小限の力で開閉できるようにした。それから、その名前にもなったウォークスルー構造。運転席から後ろの荷台まで、車両内を、腰を曲げずに歩いて移動でき、乗降回数を最小限に抑えられる。座席シートには吸水性の高い素材を採用し、雨の日に濡れたときにも、シートが湿っていないようにした。さらには、盗難防止装置も付けた。ドアはエンジンキーの有無にかかわらず、閉めれば自動的にロックされ、SD 以外は外から開けられない。

試乗テストの結果、ウォークスルーしゃは自動車メーカーの量産ラインに加わることになり、1982年以降、本格的に納車された。海外のトラックを意識した、背が高く直線的なデザインは垢抜けていた。こうしてたっきゅうびんの仕事に合った車は完成したが、昌男の、よいトラックへの熱意がさめることはなかった。協力自動車メーカーでの講演の際には、先方の役員を前に、「メーカーは走ることしか考えていない」と堂々と苦言を呈し、最後に、「どうかよいトラックをつくってください」と締めくくった。ウォークスルーしゃはそのご、リニューアルを積み重ねる。最初のテーマは安全性の向上だった。子どもが下にはいり込みにくい車両、死角の少ない車両をめざした。1999年、平成11年には、運転席から車体の下を見られる通称、ネコ窓の設置や、バック アイ カメラの搭載に加え、荷物の積み下ろしがしやすいように、荷室の床を3センチメートル下げるなど、フル モデル チェンジをおこなった。2007年には、ハイブリッド タイプのウォークスルーしゃも導入するなど、時代に合わせて進化を続けた。現在、ウォークスルーしゃのメーカーでの製造は終了しているが、たっきゅうびんのひとつのシンボルとして、歴史の1ページに刻まれていくだろう。

福岡主管支店の、新 ワイ ピー エス しゃ、プロジェクト チームが作成した設計書。1980年3月。

試作品の中に はいり、視察するおぐら まさお社長。

第1号ウォークスルー試作しゃ。1981年8月。

羽田クロノゲートのエントランスに展示された、第1号ウォークスルー試作しゃと、当時の福岡主管支店のプロジェクト チームのひとり、ながさき さとし。2013年。

車体の左側に設けたスライド ドア。

運転席の足元に設置された、ネコ窓。1999年。

2、包装資材の改革をめざして

送るものに合った包装資材を

ヤマトは、さまざまなニーズに応える包装資材を開発してきた。原点となるのは、1947年、昭和22年に輸出商品の梱包を目的に設立され、1957年にヤマト グループの一員となった千代田梱包工業、現在のヤマト パッキング サービス である。2006年、平成18年には、同社の包装資材ソリューション本部を分割して、ヤマト包装技術研究所を設立。現在も新たな包装容器や包装資材の研究開発、製造販売に取り組んでいる。

たっきゅうびんの歴史は包装資材開発の歴史でもある。1970年代後半から、80年代半ばにかけて、たっきゅうびんのエリアが全国へ広がると、包装資材に多様性が生まれた。各地域で材料やサイズ、デザイン、価格の異なる包装資材が、同時多発的に誕生していたのだ。そこで、お客さまに、より気軽に使っていただくため、また、安全に荷物を運ぶために、本社の包装資材課では、それらを集めて検討を重ね、1979年、昭和54年に、ハート ボックス、1981年にイエロー バッグ、1983年にハート バッグを開発し、全国的に統一されたパッケージの販売を開始した。

また、つつむという概念を打破し、被せるという発想も、新しいサービスとともに生まれた。スキーたっきゅうびんや、ゴルフたっきゅうびんなどでは、スキー板や、ゴルフ バッグにカバーを被せて運ぶ。レジャー産業や、スポーツ産業の発展には、こうした発想の転換も貢献していた。

進化を続ける包装資材

包装資材の改良は常に続けられている。1、2年をかけて、強度や使い勝手、コストなど、さまざまな条件を満たすものだけが世に出るのだが、それでもなお、より使い勝手がよくなるよう改良が重ねられた。

ビン専用の包装資材の開発は、たっきゅうびん開始から4年後の1980年に、「たっきゅうびんで一升瓶を運べないか」と、相談を受けたことから始まった。当初はビンの周囲に緩衝材を巻いた簡素なもので、ダンボールを重ねて積むと壊れやすい。そこで、すぐに改良が進められた。一升瓶は、立てて固定した状態で運びたい。横方向から力が加わると割れてしまうからだ。また、一升瓶の くびの部分は衝撃に強いが、肩のような曲線部分は割れやすいので、そこはどうしても保護したい。その問題は、ビンの底と、くびのところに発泡スチロールをはめて固定することで解決を試みた。1981年、ビン パックが誕生した。のちに、酒パックと改称。そのご、ワイン用のワイン パックも発売した。1993年、平成5年には、環境保護の観点から発泡スチロールを使わずに段ボールを緩衝材とし、酒ボックス、ボトルボックスとして発売。さらに、そのご、強度の低いビンに対応して、パックの強度を増し、組み立てやすくするなど、改良されている。

新しい素材の包装資材の開発

どんなものでも運べるようにしたいという思いは、新しい素材の開発にまで及んでいる。故障した家電製品をメーカーの修理窓口まで送るのにふさわしい箱はなかなか見当たらない。家電製品は大きいし、オウトツがあり、固定しづらいからだ。そこで、ヤマト包装技術研究所は、2007年に新しい包装資材を開発した。フィルム緩衝材、クイック フィットだ。尖ったものを突き刺しても穴があきにくく、仮にあいたとしても広がりにくい、伸縮性の高いフィルムを段ボールの外箱と組み合わせた。家電製品はフィルムの弾性によって固定される。サイズさえ合っていれば、誰でも簡単に梱包することができる。これにより、時代の変化とともに増えたパソコンや、プリンター、デジタル カメラなどを、簡単かつ安全に運べるようになった。

段ボールなどの包装資材は、その生産と廃棄の過程で多くの二酸化炭素を排出する。それを削減するため、2008年には繰り返し使用できる、リターナブル包装資材、フリックスが開発された。ヒントは風呂敷。フリックスは軽くて柔らかい素材で、梱包の自由度が高い。これで荷物をつつんで、付属のポンプで空気を抜くと、荷物の形状に固まって緩衝材の役割を果たす。このフリックスを使ったネコ フィットも、パソコンや、プリンターの輸送に重宝されている。

ヤマト包装技術研究所でのダンボール箱の落下試験。

ハート ボックス。1979年3月。

イエロー バッグ、1981年。ハート バッグ、1983年。

ウォークスルー ボックス。1989年。

スキー板カバー、1983年12月。簡易ゴルフ カバー。1984年4月。

緩衝材が発泡スチロールから、段ボールへと改良された酒ボックスと、ボトル ボックス。

クイック フィット。フィルムによって中の荷物、カメラが固定されている。

フリックスを使ったネコフィット。

3、作業改善、品質管理の取り組み

翌日配達のための品質管理

昌男は、正確に早く荷物を届けるための効率化には労を惜しまなかった。たっきゅうびんのサービス レベルを向上させるため、荷役や仕分けなどの作業効率をどう改善するか知恵を絞った。1981年、昭和56年度からの、ダントツ3ヵ年計画は、顧客の立場で優れたサービスをつくり出し、そのレベル アップをはかることをテーマに掲げていたが、その本質は、スピードへの挑戦だった。1981年、たっきゅうびんの品質を把握し、向上させる目的で、品質管理部が事務改善部と作業改善部に分割された。情報システムが今ほど発達していなかった当時は、今どこに荷物があるのか、配達が完了したかどうかといった情報の収集を効率化する業務を事務改善部が、荷物を実際に運ぶ仕組みづくりとその運用実績の把握を作業改善部が受け持つことになった。ふたつの部は連携しながら取り組みを進めていった。作業改善部は、全国翌日配達の仕組みづくりと同時に、そのチェック機能の構築を進めた。すでに配達店はコード番号によって整理されていたが、それを郵便番号とひもづけたり、ベース間の運行ダイヤひょうを手づくりして全国ネットワークの現状を把握。そこから改善に取り組んだ。

翌日配達が完了しているかどうかの確認も、手づくりのサービス レベル表をもとにおこなった。これは縦軸を出発地、横軸を到着地としたマス目をつくり、そこに翌日配達の達成率を書き込み、色分けしていくもので、一目でサービス レベルがチェックできた。1987年には、ベース間を走る大型トラックの運行状況を管理しようと、全国いっぱの業務用無線を導入した。その背景には、1984年の新潟の大雪で運行シャが渋滞に巻き込まれ、連絡が取れなくなったことへの反省があった。

こうした試みを通じて、ヤマト運輸は翌日配達への課題を明らかにする。それは、輸送ルートの早急な確立、中継時間の短縮、省力化、集配システムの整備の3点だった。この課題解決には膨大なコストがかかることは明らかだったが、昌男は、「いいじゃないか、お金がかかったって。やろうよ」と、前だけを向いていた。

ハード、ソフト、ヒューマンの融合

1978年、埼玉県戸田市に首都圏ベース、現在のヤマト運輸 北 東京が完成した。この拠点には、サンドビック社製の荷物の自動仕分機が導入された。決断したのは昌男だった。昌男は、システムとはハード、ソフト、そしてヒューマンが組み合わさって成り立つもので、そのみっつの要素のうち、最も重要なのはヒューマンであり、ヒューマンこそがハードやソフトの能力を引き出す鍵になると考えていた。自動仕分機も、その前提での導入となった。当初は首都圏ベースで使用を開始するはずだった自動仕分機だが、工事が遅れたために、1977年に竣工した札幌ベースでの稼働が先になり、仕分業務の効率が大幅にアップしたのだ。首都圏ベースには札幌の3倍の能力を持つ自動仕分機が導入された。

荷役作業の合理化は、たっきゅうびん開始以前から大きな課題になっていた。路線事業では主にパレットが活用されていたが、作業時間が長時間にわたるうえ、形状の異なる荷物を積むため、運行途上の振動で荷崩れするなど、荷物事故の原因にもなっていた。そこで、ユニット ロード システムの採用を試みた。ユニット ロードとは大きさも形も異なる荷物を定型のユニットにまとめ、そのユニット単位で輸送したり保管したりするものだ。この仕組みに挑戦しようとしたとき、昌男の頭の中には風呂敷づつみがあった。その中身がどうであれ、風呂敷で包んで結べば運びやすくなる。この概念が浸透した日本でなら、ユニット ロード システムは成功すると考えていた。1971年、ユニット ロード システム構築のため、パレットとコンテナの機能を兼ね備えたボックス パレットが導入された。導入直後は、自じゅうが70キログラムもあり、移動にはフォーク リフトを使っていたが、ボックスごとの方面仕分けと、ボックス単位の輸送の徹底により、ワンマン輸送も可能になり、荷下ろしの時間が大幅に短縮。その結果、品質向上とスピード アップ、作業効率が改善し、1974年にはベース間の輸送にも全面採用された。

一方、百貨店配送では、1971年からボックス パレットに車輪を取り付けた、ロール ボックス パレットが使われるようになり、たっきゅうびん開始後は、そちらが主流になっていった。さらに、重さや、組み立てに時間がかかるといった問題は、2000年、平成12年に導入した新型で改善された。また特定の地域にボックスが偏在することを防ぎ、効率よく利用できる、ボックス コントロール システムもつくられた。

現在、最新の設備を備えた羽田クロノゲートでは、多くの荷物が人の手を介さずに自動で仕分けされている。これらは、こうしたアイデアを試してきた社員の発想や、工夫の積み重ねが土台になっている。

べース間の運行ダイヤ表。1981年。

手書きのサービス レベル表。1981年。

夜のベースに停車する運行シャ。

サンドビック社製の自動仕分機。1990年ごろ。

自動仕分機トレー方式、大阪主管支店。1985年。

1970年代のボックス パレット。当時は車輪がついていなかった。

百貨店配送で使われた、車輪つきのロール ボックス パレット。

ロール ボックス パレットをトラックに積み込む。1980年代。

4、安全向上への取り組み

安全に対する理念

おぐら やすおみが交通安全に取り組むきっかけになったという最も古い記録が、通称、残念事件である。1920年、大正9年4月28日、ヤマト運輸のトラックと荷車が接触し、荷車を引いていた男性は、「残念、残念」と言って息を引き取った。この事件を機に康臣は、運送業につきものとされる交通事故をなくす挑戦を始めた。

昌男が安全への思いを強く意識したきっかけは、1955年、昭和30年ごろ、当時の出向先であった静岡運輸での出来事だった。このとき労働基準監督署から労働災害が多すぎるからと、事故の少ない模範的な木工工場の見学をすすめられた。その現場で聞かされたのは、「安全も能率もどちらも一番だ、とすると、どちらも中途半端になる」という言葉。そこで工場見学から戻った昌男は、安全第一、営業第二のモットーをつくって静岡運輸で実践させていったところ、徐々に労災事故は減り、営業の動きはむしろ活発になっていった。昌男は出向を終え、ヤマト運輸に戻ってからも、この考え方を徹底していった。

安全教育、組織としての取り組み

社内には1969年3月、安全部が新設された。自家用車の普及が進み、交通事故が急増した時期のことだ。昌男は、事故は管理者次第で防げると考え、管理者はドライバーが日々、どのように仕事をしているかをすべて把握しているべきだとした。それゆえに、運行管理者への教育は徹底しており、安全部長とも頻繁に情報交換をし、新たに運転者管理規程の付属規程を制定した。また、ドライバーには、運転者手帳を作成し、配布した。ユニークなところでは、当時流行していたバイオリズム、生体活動周期も事故防止に活用しようとしていた。

全社を挙げての取り組みは、1974年にひとつの成果を上げた。秋の交通安全運動、十日間中の事故がゼロになったのだ。昌男はそのときの心境を、「何年か後には、世間の誰もが黒ネコのトラックを指して、あれは事故ゼロの会社なんだよ、と言うようにしたいと思う」と社内報に綴った。さらに同年には安全指導員制度が定められた。そして1982年、主管支店に専任者が配置され、1997年、平成9年からは安全指導長という名称になった。1975年、昭和50年には社内に安全教育センターが誕生した。これは、新規採用した運転者の適性検査や教育を総合的におこなう施設で、1984年の中央安全研修センター設立につながっている。2004年、平成16年には、営利企業として初めて、国土交通大臣より、貨物自動車運送事業輸送安全規則に基づく適性診断の認定を取得している。

1994年正月の新聞に掲載されたヤマト運輸の広告は、車両に取り付ける SD のネーム プレートに関するものだった。堂々と自分の名前を付けて走ることは、人の安全、町の安全、荷物の安全に向ける決意と、責任を表明することと結びついているのだ。

安全を実現するハード & ソフトの開発

こうした、ジン的な安全教育に力を注ぐ一方、事故を防止するハード開発も積極的に進めてきた。システムがそうであるように、事故防止もハード、ソフト、ヒューマンのみっつがうまく組み合わさって作用する。安全装置搭載車、事故るもんカーはその最たるものだ。1994年に高崎工場で研究開発が始まった、この車には、車の下や後方を確認するカメラを取り付け、その映像が運転台のモニターに表示されるようにした。確認の促進や、サイド ブレーキの甘さの指摘には音声を使い、看板などの左ゼンポウ上部の障害物を検知するアラーム システムも搭載した。こうした取り組みの中から、特に支持を集めたバック アイ カメラの搭載を1995年から進めていった。また、バック時の事故発生率の高さに注目し、バックそのものを減らすため、現状を把握しようと、1996年に、バック回数カウンターを開発した。数字であらわすことで、輸送の見える化をはかることは、のちの車載システム、シーティー ナビの開発へと展開。交通事故防止とドライバー支援を目的としたこのシステムは2008年に開発着手し、2010年に利用を開始した。現在は ネコ システムとも連携している。さらに2019年からは、ドライブ レコーダーとデジタル タコグラフを一体化した、通信機能搭載の車載端末の取り付けを開始し、取得できた運行データを分析して、安全運転教育のさらなる高度化を推進。さまざまな機器がインターネットとつながるアイ オー ティーの進展に伴った取り組みだ。安全第一が、ヤマトを健全、かつ長期的に成長させる。この思いは、時代が変わっても受け継がれていく。

1970年代のパトロール専用車と、安全指導員によるパトロールの様子。

運転者手帳、1980年代。わかりやすくイラストを取りいれた。

事故ゼロを達成したときのボード。1974年。

ドライバー研修用シミュレーター。

トラック安全運転教育シミュレーター、ネコデス、1998年。1986年に中央安全研修センターが中央研修センターとして移転した東京都品川区、港南ビルに、新たに導入された。

正月新聞広告、町じゅうに名前を覚えてもらうこと。1994年。

事故るもんカー に搭載された、バック アイ カメラ。1995年。

シーティー ナビ を起動する SD 。2013年。

三重県、鈴鹿サーキットで開催された、ヤマト運輸全国安全大会。2014年。ヤマト グループ各社では、安全に関する知識や運転技術を競うことで、社員の安全意識向上をめざすドライバー コンテストを開催している。

5、生産性向上への取り組み

生産性向上はサービスに直結

サービスが先、利益はあと、という理念は、たっきゅうびんのサービス内容が多様化し、差別化されていく過程でも貫かれた。翌日配達も夜間のお届けも、お客さまの立場に立ってのサービスであり、スキーたっきゅうびんやゴルフたっきゅうびん、クールたっきゅうびんも、お客さまのニーズに応えた結果、生まれた商品だ。

こうした進化を、提供するサービスの品質を落とすことなく、また、社員の負担を増やすことなく続けるには、効率化の工夫が必要だ。1987年、昭和62年の、ダントツ3ヵ年計画パート スリーで、時短が目標に掲げられ、時短プロジェクトが始まったのには、そうした背景があった。

早い配達、遅い集荷を実現する施策

本社に労使による、時短プロジェクトが発足したのは、1989年、平成元年だった。これは、それまでの時短へ向けての取り組みを抜本的に見直すことを目的としたものだ。新しい考え方を取りいれるため、ワーキング グループには若い社員を登用し、集配グループ、事務グループ、賃金グループで構成した。各グループは、時短を阻害する要因の洗い出しに着手した。改善するには、まず現状の把握からという考え方は、ここでも変わらず踏襲された。

現状を知るために調査したのは、例えば、荷物1個当たりの処理時間と、配達車両の走行時間だ。最終的には、取扱個数と労働時間の関係がどうなっているのかを把握しようとした。こうした取り組みの末、 SD の必要労働時間は取扱個数と走行距離に、お客さまの不在率など一定の地域特性を係数化したものをかけると算出できることがわかった。そこで、取扱個数と走行距離に基づいて、営業所ごとに必要な労働時間を算出し、営業所の適正要員数を決定することにした。それまでは、営業所長の経験と、勘で決めていた要員数を、目標とする労働時間と、現状とのギャップを埋めるため、数字に基づいて決めることにしたのだ。

集配アシスト システム導入による成果

1990年、時短プロジェクトの提案を受け、松本西営業所などで、アシスト システムが導入された。これは、 SD の出発前と帰社後の作業を、アシストと呼ぶパート社員に任せるもの。お客さまのニーズはより早い配達、より遅い時間の集荷であるため、サービスの品質を上げながら時短が進められる。松本西営業所では、導入から3年目に年間総労働時間が前年より減り、生産性も向上した。トレード オフの関係にある、時短とサービス品質の向上を同時に実現させた。このアシスト システムは、そのご、全国へと広がっていった。

1990年代初頭、集配にもアシスト システムを導入して大きな成果を挙げたのは、大阪、南港ポート タウンでの試みだ。マンションが数多く立ち並ぶこのエリアでは、午前7時から配達していたが、夜遅くまでかかることもしばしばだった。当時、大阪主管支店長を務めていた瀬戸かおるは、住民の動きを見て、主婦が出かける前に配達しきってしまえばよいのではと考えた。そこで午前7時から9時までの間、集配アシストを投入した結果、みごとに配達を終えることができた。また、御堂筋などの商業地域を担当する大阪中央支店では、お客さまへの調査の結果、集配の需要が9時から11時までと、14時から18時までに集中する、 M 型曲線を構成していることが明らかになった。そこで、その間だけ勤務する集配アシストの募集をかけたところ、この地域にかよう専門学校生が多数集まった。朝夕に働ける、 M 型の勤務は最適だったのだ。住宅地では在宅の多い時間に集配でき、商業地では午前中の配達とともに、午後遅い時間の集荷にも対応できるようになり、荷物の取扱個数は、前年超えの更新を続けていった。さらに1997年には、管理者を対象に生産性向上を目的とした、業務管理システムを全社で導入した。

集配効率を高めるさまざまな取り組み

これまで集配効率を高めるために、さまざまな取り組みがおこなわれてきた。1995年、瀬戸は視察先のアメリカで、 UPS 社の集配シャが、決まったルートを走って、決められた時刻に特定の場所で停まるという、バスのような動きをしているのを見た。集配シャが停まると、荷物は台車に載せ替えられて、配達される。配達が終わると、集配シャは、次のバス停に向かって出発する。集配シャの発車、停車は最低限に抑えられるので、事故が減らせる。そのご、ヤマト運輸でも本社主導で、この、バス停方式を導入したが、すでに1980年代から商業地域のセンターなどでは、これに近い試みをおこなっていた。

2000年代に生まれた取り組みのひとつが、移動型アシスト。 SD と集配アシストがチームを組み、 SD から荷物を受け取ったアシストは台車を使って配達をしながら移動し、移動した先でまた、 SD から新たな荷物を受け取る。これを繰り返すことで配達効率を高めるのだ。2000年代半ばには、バス停方式に、フィールド キャスト ( FC ) と呼ばれる移動型アシストを組み合わせた、チーム集配などの試みも始まった。構造改革部では、バス停方式を取りいれやすい棚つきの新型車両などの開発もおこなった。さらに、固定観念を覆す、伝票を抜かない配達では、抜きとった配達票をもとに配達ルートを組んでから出発するのではなく、荷物を集配シャに積み込む際に、配達エリアごとに分けて積み込むことで、所要時間を大幅に短縮した。

2008年度から始まった、満足創造3か年計画でも、品質を高め、コストを下げ、生産性を飛躍的に向上させることは重要なテーマとされた。個別の工夫や手法は、社内向けウェブ サイトのコンテンツ、ネコの手発見で、全社に共有。2010年からは、あるべき集配とは何か、をテーマに、各支社に設置されたモデル店で実証実験が進められた。

ヤマトの第一線の社員は自分たちの判断で工夫し、効果があるものを積極的に取りいれていく。根底には、お客さまに満足いただきたい、という思いがある。

労働組合機関紙、 ネットワークで取り上げられた、時短プロジェクトの始動。1989年。

松本西営業所で、朝の積み込み作業をおこなうアシスト。1990年。

ヤマト ホールディングス会長時代の瀬戸かおる。講師として各現場を回り、生産性向上の取り組みを教授した。

バス停方式、集配ルート マップの作成。2008年。

バス停方式でのチーム集配。2013年。

SD と FC が協力して集配をおこなうチーム集配。2011年。

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