1、社訓から企業理念へ
おぐら やすおみがこめた思い
社訓は、創業者のおぐら やすおみが1931年、昭和6年12月に制定したものだ。康臣は会社経営について、ある確信を得ていた。それは、経営者がどれだけ合理的な経営をおこなったとしても、その会社は形式的な組織にすぎないというものだ。会社が社会から認められるには、そこで働く、ひとりひとりの心がけが最も重要と考えたのだ。
ヤマトは我なり、という短い言葉には、誰もがヤマトの代表であるという意味がこめられている。運送行為は委託者の意思の延長と知るべし、の背景にあるのは、貨物運送事業に携わる者は、公共機関を担う責任があり、お客さま、委託者の心を受け継ぎ、責任と誠意をもって、迅速かつ正確にお届けするという認識。思想を堅実に礼節を重んずべし、は、自己を律し、コンプライアンス、法令遵守を重視することを端的に示している。
この社訓は、訓示として社内に伝えられた。運送事業に携わる者は、日々、それぞれの持ち場で働いているため、上意下達に時間がかかる。それを補って余りあるのが、社訓を大事にする、ひとりひとりの自主性だと康臣は考えていた。この思想は、1922年、大正11年ごろから使われている、桜に Y の社章にもこめられている。花びら一枚一枚は社員。集まって花となり、さらに集まって木となるさまは、全員経営を表現している。
おぐら まさおが受け継いだ思い
康臣が社訓にこめた思いは、おぐら まさおにも受け継がれた。特に、ヤマトは我なり、という言葉を、社員全員が第一線の選手であり、補欠ではないとも解釈し、全員経営に結びつけた。自分は何をすべきかを自分で決め、自分で動く。お客さまが何を求めているかを自分で考え、自分で解決する。課題解決のために、ひとりひとりが自ら考え行動することを、全員経営と表したのだ。その全員経営を社内に根付かせるため、コミュニケーションが重視された。会社としては、どのような目標を達成したいのかを、文字や声で繰り返し社員に伝えた。
全員経営を実践するのは社員だ。特にたっきゅうびんでは SD の存在が不可欠だった。商業貨物は、営業をする人と運ぶ人が別だったが、たっきゅうびんはそうではない。どこから荷物が出そうか、いくつぐらいありそうかは、各地域を回っている SD だからこそわかるからだ。その SD に求めるものを、昌男は次のように表現した。ひとつは、デパートの食堂で働く人々のように、注文を取り次ぐ人、料理を作る人、運ぶ人といった、分業制で仕事を進めるのではなく、ひとりでなんでもこなす寿司屋の職人のように、お客さまのひとつひとつの要望に応えてほしい。ひとつは、サッカーチームのフォワードの選手になってほしい。フォワードには、メンバー全体との緊密な連携プレーだけでなく、シュートするか、パスするか、自らとっさに判断することが必要だ。昌男は SD に優秀なフォワードになることを求めた。
企業理念にこめたこと
全員経営、さらには、サービスが先、利益はあと、という考え方は、社員に広まりつつあったが、そうした思いが明文化されるまでには少し時間を要した。転機になったのは1991年、平成3年、日本経済団体連合会が企業行動憲章を策定したことだ。このころから、企業には存在価値や、役割を明文化することが求められるようになり、ヤマト運輸も社訓に、経営理念、企業姿勢、社員行動指針を加えた、企業理念を制定することになった。
経営理念の文言を決める過程で、昌男はたっきゅうびんに、社会的インフラとしての、という言葉をいれるかどうか、最後まで迷っていた。「おこがましいかな」と自問自答しながら悩む様子が印象的だったと、当時の策定プロジェクトメンバーのヤマウチ雅喜は振り返る。そうなりたいという熱意と、そうなるからには重い責任を負うのだという覚悟がいり交じっていた。
かくしてヤマト運輸企業理念は、1995年に制定され、各店ショにパネルとして掲示されたほか、全社員に小冊子として配布された。冊子の冒頭で、当時の宮内こうじ社長は、「社員のみなさんが、同じ認識をもって目標へ向かうときの指針であり、同時に社会に対しての宣誓である」と記した。この企業理念は、2005年に、環境や、個人情報の保護などに言及するために改訂され、そして、現在はヤマト グループ全体で共有されている。昌男は、一度決めたルールは何がなんでも守りとおすべきだとは考えていなかった。たとえば休みの取りかたなどは、社会が変われば変わるのが当然だ。しかし、絶対に変えてはならないものもある。それは全員経営に代表される社訓にこめられた思いだ。