このページは音声読み上げブラウザに最適化済みです。

第1部、100年のあゆみ。物流を切り拓いたイノベーション

第4章、事業多角化の物語

複数の事業を軸に、総合力を強化するヤマトグループの経営体制の礎となったのは、 おぐら やすおみとおぐら まさおによる事業多角化の取り組みである。戦後の混乱の中で、 広く物流に関連する事業に進出した康臣。たっきゅうびん開始後も、 お客さまの新たなニーズに応える事業に乗り出していった昌男。ふたりの挑戦の軌跡を追う。

アライド ヴァン ラインズ社、ジェームズ カミンズ副社長を出迎える、おぐら やすおみ社長。1957年。

1. おぐら やすおみが取り組んだ多角化

事業の多角化への道

ヤマト運輸が事業の多角化に乗り出したのは、第1章でも触れた1946年、昭和21年、進駐軍関連の仕事の受注がきっかけだった。その仕事ぶりが認められたことから、関連業務はそのごも続き、トラック運送だけでなく、通関、航空貨物、海上貨物などにも手を広げ、1953年には梱包輸送、航空、海運の各業務を統括する事業部を設立し、業務拡大の基盤を築いた。

百貨店配送の展開

百貨店配送も、戦後、大きく拡大した事業だ。もともとは1920年、大正9年の大恐慌の影響で減少した仕事を増やすため、おぐら やすおみが開拓した分野のひとつだった。1922年に三越呉服店の注文で横浜まで家具を運んだのを契機に、東京市内の配送を一手に引き受けるなど業務を拡大し、安定的な収入源とした。

この配送業務は戦争によって中断したが、1949年、昭和24年、三越百貨店が都内配達を復活させると同時に、ヤマト運輸の業務も再開し、三越大手町別館に三越出張所を設けるに至った。百貨店配送は、このご、三越のほか、白木屋、松屋、伊勢丹、髙島屋、小松ストアーなどへ拡大し、ダイマルが東京へ進出すると、その業務も一手に担うなど広がりを見せた。

昭和30年代から40年代にかけて、小田急百貨店や京王百貨店など、鉄道系百貨店が相次いでオープンすると、それらの配送業務も手がけ、1968年には江東区東雲に東京配送センターを開設している。

百貨店配送が伸びた時期は、それまでの基幹業務である路線事業の業績が不況の影響で減少した時期でもある。百貨店業務は徐々に、ヤマト運輸の経営基盤を支える大黒柱となっていった。しかし、第2章で述べたように百貨店業務には固有の難しさもあった。繁忙期の存在だ。そこは、2トン コンテナを導入し、迅速に各方面に発送するなどして乗り切った。1960年代には、工夫を凝らして継続した百貨店配送が、ヤマト運輸の業務全体の2割近くを占めるまでに成長した。

戦前、戦後の区域、貸切事業

委託された企業の製品、荷物を専門に運ぶ区域、貸切事業も大正時代に芽生え、戦後に大きく育った事業だ。事業確立の発端は1923年、大正12年、関東大震災の際、陸軍省に救助品などを運搬するトラックを10台、貸し出したことだ。そのごも、逓信省、文部省、くない省などの官庁や、東京府、横浜市などの自治体に、同様のサービスをおこなってきた。

その対象を民間にも広げたのは昭和初期だった。1927年、昭和2年に、阪川牛乳店と牛乳運搬用トラックのジョウヨウ契約を締結し、そのごは、丸善、大日本雄弁会講談社、主婦の友社などと配達請負契約を結んでいる。

戦後になると、民需輸送はこの区域、貸切事業から再スタートを切った。築地営業所を京橋作業所と改称し、営業を開始したのは、終戦から1カ月足らずの1945年9月10日。入手困難なガソリンとともに荷主から持ち込まれたのは、鮮魚や野菜、果実などの食料品が中心だった。

そのご、扱う荷物には、企業拠点移転に伴う引越の荷物などが加わっていく。ユニークなところでは、全国で興行するプロレス団体のリングの運搬、設営や解体なども担った。

戦後に手がけた事業のひとつに家財の梱包輸送がある。冒頭で触れた進駐軍で、軍人の転居や、帰国に必要な家財道具の梱包輸送がその第一歩だった。米軍が弾薬や兵器の梱包に使っていた防水シなども活用した。引越にあたっては、小さな皿一枚に至るまで、従業員が梱包し、軍人やその家族には、荷物に手を触れるなどの手間をかけさせなかった。この仕事がピークを迎えたのは、1950年に勃発した朝鮮戦争のさいちゅう。1日に数件というペースで引越をこなすため、日が暮れると、トラックのライトを灯して梱包作業をおこなったほどだった。米軍に関する業務は、1957年から、アメリカのアライド ヴァン ラインズ社との提携のもとで進んだ。作業量が増えたため、同社からの5トン コンテナも活用した。この提携は、在日米軍の減少などにより解消されるまで、5年間続いた。

このころの技術や拠点を生かして、のちに手がけた仕事には、各国の大使や、公使の家財道具の梱包輸送、さらには、1959年の皇太子ご成婚記念関係の作業がある。

プロ野球の読売巨人軍選手の荷物を運び始めたのは、9連覇の最中の1972年のことだった。その2年後に現役を引退し、監督に就任した長嶋茂雄監督からは、社内報の取材の中で、「ヤマトもジャイアンツの一員である」との言葉をもらった。ほかにも、グアム島で発見された残留日本兵の横井庄一さんの帰国時や、エリザベス女王、ご一行、ローマ法王ヨハネ パウロ2世の訪日時など、多くの歴史に名を刻んだ著名人の荷物を運ぶ機会があった。

話題作も扱った、美術品梱包輸送

美術品梱包輸送は昭和30年代に始まった。米軍関連事業が縮小し、1956年度の経済白書に記されたとおり、日本は、もはや戦後ではなくなりつつあった。

美術品を運ぶという発想は、社員の個人的体験から生まれた。知人の自宅で、重要文化財クラスの美術工芸品を見せてもらった際に、こうしたものを運ぶニーズもあるのではないか、と気づいたのだ。世の中を見わたすと、新聞社などが美術展を主催するようになっていた。

最初の仕事は、1958年の5月からのインカ帝国文化展、6月にはローマ展も請け負った。現在、国立西洋美術館の庭にたたずんでいるロダンの 考える人 も、ヤマト運輸が運んだものだ。こうして実績を積むのと前後して、東京国立博物館から1年間にわたり、美術品の扱いや、梱包について学ぶ機会を与えられた。

このころ、康臣は梱包状態や、輸送環境もさることながら、従業員には身なりと態度にも十分に注意するよう教育していた。もともと社内には、制服や車は清潔に保つという文化があったが、扱うものが美術品なら、いっそう配慮が必要だと考えていたのだ。

これまでに多くの美術品を運んできたが、その中でふたつ、歴史に刻むのにふさわしい美術品がある。ひとつはミイラ、もう一つは、ひまわり だ。ミイラとは、1975年に開催されたインカ文明とミイラ展で、最も注目された展示品だ。担当者はペルーへ渡り、文化庁と税関の担当者、公証人立ち会いのもとで、11たいのミイラを梱包した。最も弱いのは首。もげてしまわないよう、上質の茶碗を扱うようにして梱包作業をおこなった。ひまわりとは、ゴッホの作品のことである。1987年に日本の大手損害保険会社がオークションで、この作品を58億円で落札し、世界的なニュースになっていた。その絵の輸送を依頼されたのだ。このときは、梱包状態だけでなく、輸送中のセキュリティにも十分に配慮した。ただし、大げさな警備体制はとらず、担当者がひとりで、ロンドンから飛行機で持ち帰ってきた。その担当者がどの便に乗るかは公表せず、秘密りのうちに輸送は完了したのである。

こうした目立たないための工夫は、美術品専用車両の開発時にもとりいれられた。防湿、定温が求められるからこその専用車両であり、初期の車体には美術品専用車両と大きく記されていたが、そのごは、表示を削除し、一般車両と変わらないものに変更された。

1988年には、アートボックスが開発された。たっきゅうびんで絵画を送れるようにした梱包資材だ。きっかけは、日曜画家の作品のコンクール展のために、上野の森美術館から、集配しやすい梱包資材について相談を受けたことだった。アートボックスの利用で、コンクール展には、最高で6000点の作品が寄せられた。

信頼を獲得した、区域、貸切事業

康臣が取り組んだ区域、貸切事業の中で、最後に触れておきたいのが、東京コカ コーラ ボトリングとの仕事。スタートは1961年で、芝浦にあった工場から米軍 三沢基地までの輸送を担当した。従業員の中には、コカ コーラが何かを知らない者もいた時代だ。そのご、多摩に工場ができると需要は激増し、1964年には高浜町支店内にコカ コーラ出張所、1966年には工場の隣接地にコカ コーラ営業所を設置し、1968年にはコカ コーラ営業本部を設立するに至った。当時の区域事業の中で最も高いシェアをもっていたのである。のちには工場の空き瓶、缶の補充や、出荷を待つ商品の移動、酒屋や問屋への配送なども担当するほどの信頼を獲得。この事業は2009年、平成21年まで続いた。

屋台骨を支えた通運事業

戦後復興期には、トラックによる輸送だけでなく、国鉄を利用した通運事業に乗り出した。ひとつの駅につき、1業者という、それまでの制限がなくなったのを機に、1949年、昭和24年に、都内の主要貨物駅である汐留、秋葉原、いいだまち の通運免許を取得。進駐軍の仕事で培った人脈による情報で、いち早く免許申請書を提出できたのである。

営業は1950年に始まった。鉄道輸送と、ヤマトビンの路線もうを組み合わせたこぐちこんさいは人気を集め、3年目には事業は黒字に、さらに2年後には全社収入の2割以上を占めるまでになった。

ただし、通運事業は、世間の景気の影響を強く受ける。1956年からは神武景気の余波で取扱数量は増えたが、1958年の なべぞこ不況で下落に転じた。しかし、そのような中でも、フォーク リフトやパレットを導入して合理化を推進。1959年に国鉄がコンテナ列車の本格運行を始めると、ヤマト運輸も積極的にこれにかかわり、1960年に東京、大阪間でトラックの運行を始めてからも、その姿勢は変えなかった。

結果として、この通運事業は順調に業績を伸ばし、昭和40年代後半まで増収を続け、この時期のヤマト運輸の屋台骨を支えた。

航空貨物、海運、旅客への展開

創業のころから ときと競うことに注力してきた康臣が、飛行機に着目したのは当然だった。1932年には、スピードを必要とするお客さまのために、航空貨物輸送事業に乗り出している。

戦後は1950年に駐留軍人の引き揚げ荷物の通関業務から再開。税関貨物取扱にんの免許を取得し、翌年には国際航空運送協会、 IATA に非加盟の、台湾の航空会社、シヴィル エア トランスポート、 CAT との客貨の代理店契約を締結し、貨物の取扱業務を開始した。 IATA 貨物代理店の資格を取得したのは1955年。代理店として、航空業務の拡大が一段と、はかられた。

国際航空貨物の取扱量は飛躍的に増加し、さらなる成長を期待して、1968年には駐在員をニューヨークへ派遣。ヤマト運輸にとって初めての海外駐在員だ。1971年にはニューヨーク営業所、翌年にはロサンゼルス駐在事務所、さらに1975年にはヨーロッパで初となるアムステルダム駐在事務所を開設した。

国内の航空貨物輸送については、1962年に航空運送事業免許を取得し、1973年までに、沖縄を除いた主要幹線での自営化を完了した。これにより、首都圏と地方を高速に結ぶネットワークが確立できた。

海上貨物、港湾運送事業に参入したのは1952年。このきっかけも駐留軍人の引き揚げ荷物の扱いで、梱包だけでなく、輸送、船積み、税関手続きなどの資格を必要に応じて取得していくうちに、一貫輸送体制が構築され、当初は他社に任せていた、はしけ運送まで自社で手がけるようになった。

海上コンテナ輸送にも、いち早く対応した。1967年、品川埠頭に従業員の姿があった。目的は、アメリカから初めてやってきたコンテナせんをその目で見ることだ。それはまるで新時代の到来を告げる黒船のように見えたという。積まれていたのは325本の10フィート コンテナだが、今後は大型化が進むだろう。そう直感した従業員の声もあり、同年中に、海上コンテナの陸上輸送テストを実施した。さらには社内体制も整え、1968年には、ジャパン ライン、現在の商船三井との協業で、海上コンテナ第1号輸送をおこなった。千葉県野田市から横浜港まで、コンテナの中身は醤油だった。

そのご、コンテナの荷さばき、コンテナのリースなど関連業務も手がけるようになり、1977年には極東リース、現在のヤマト リースを設立。こうしてドア ツー ドアの国際 複合一貫 輸送体制が構築できた。1979年には海外から、遊園地向けの大型遊具や、ジャンボ ジェット機よりも大きな飛行船も輸送した。

旅行事業を手がけた時期もある。1963年には旅行取扱業務を、1967年には国内観光斡旋業務を開始している。

自社ブランドのパッケージ ツアー、キャッツ アイ ツアー が誕生したのは1983年。航空海運事業本部から独立したトラベル サービス本部による企画だ。この2年後、プラザ合意により円高が進むと、海外へ出かける旅行客は急激に増加しているので、それを先取りしたかたちとなる。キャッツ アイ ツアーでは、和泉雅子と行く北極冒険ツアーや、小松原三夫プロと行く北京ゴルフ ツアー など、さまざまなパッケージを提案した。このトラベル事業は2001年、平成13年まで継続した。

百貨店配送に使われた三輪トラック。1958年ごろ。

丸善の配達専用車。1930年代。

GHQ の作業に従事した、ヤマト運輸のトラック。

ルオー遺作展の展示作業。1965年。指示するのは、ルーブル美術館副館長。

美術品梱包輸送のミイラ担当者と、ひまわり担当者は、ミイラ課長、ひまわり課長として、1989年の新聞広告にも登場。

コカ コーラ輸送のために専用車を開発し、特許も出願。1970年ごろ。

秋葉原駅構内の混載便、荷受所。1956年、営業案内より。

1950年代の国際航空貨物専用車。

荷物を本船まで運ぶのに活用されたはしけ、ヤマト丸。1981年。

京浜港のコンテナせんへ積み荷を運ぶコンテナ専用車。1960年代後半。

1970年ごろの旅客営業所での接客の様子。

引越らくらくパック の作業風景。1980年代。

事業多角化に関わる出来事

年表の はんれい

  • 百貨: 百貨店配送
  • 区域: 区域、貸切事業
  • 美術: 美術品梱包輸送
  • 通運: 通運事業
  • 航空: 航空貨物事業
  • 海運: 海上貨物、港湾運送事業
  • 旅客: トラベル事業
  • 引越: 引越事業
  • 新じ: その他新事業
  • 物流: 総合物流事業
大正11年、1922年百貨: 三越呉服店の注文で、横浜まで家具を運ぶ
大正12年、1923年百貨: 三越呉服店と商品配達の正式な約定書締結
区域: 関東大震災復興輸送のため、省庁や自治体にトラックを常時提供
大正13年、1924年引越: 引越荷、婚礼荷業務開始
昭和2年、1927年区域: 阪川牛乳店と、牛乳運搬用トラックのじょうよう契約を締結
昭和7年、1932年航空: 航空貨物輸送事業に進出
昭和20年、1945年区域: 築地営業所を京橋営業所と改称し、区域、貸切事業を再開
昭和21年、1946年区域: 進駐軍関連の仕事受注。事業多角化のきっかけ
昭和22年、1947年区域: 越前ぼり作業所を開設し、米軍人軍属の家財梱包輸送開始
昭和24年、1949年百貨: 三越大手町別館に三越出張所を設ける
通運: 通運事業の免許を取得し、翌年から営業開始。汐留、秋葉原、いいだまち
昭和25年、1950年航空: 東京税関貨物取扱人免許を受け、通関業務開始
昭和26年、1951年航空: CAT 、シヴィル エア トランスポート航空と契約し、航空代理店業務開始
昭和27年、1952年海運: 京浜港において、海上貨物の取り扱い開始
昭和28年、1953年海運: 横浜税関貨物取扱人免許を受け、通関業務開始
昭和30年、1955年航空: 国際航空輸送協会、 IATA 貨物部門に加入
昭和32年、1957年区域: 米軍調達部と、梱包輸送に関する契約を締結。アライド ヴァン ラインズ社と、駐留軍人軍属の輸送家財梱包、および船積み業務提携の契約を締結

2. おぐら まさおが取り組んだ多角化

利用者の潜在需要を読み取る

康臣は、戦争の終結という社会構造が変わるタイミングを事業多角化の契機としたが、おぐら まさおは、利用者の潜在需要をつかんで新商品の開発をおこない、事業多角化に結びつけていった。その代表例がたっきゅうびんである。面倒な梱包をしなくても、小さな荷物ひとつでも、ドアからドアまで運んでもらいたい。そうしたニーズを捉えて、たっきゅうびんの仕組みをつくりあげた。サービスが先、利益はあと、を念頭に、まずはお客さまのニーズを満足させることを優先させたのである。

新しい発想の引越事業へ

戦後、進駐軍の引き揚げを手がけた引越事業の中心は、高度経済成長期には、官公庁や企業の引越へと移っていた。この現状に合わせ、1973年、昭和48年、本社開発部に引越センターを新設し、増えつつあった超高層ビルへの移転作業を受注するなど業務拡大をはかった。1978年には、一般消費者を対象とした、小さな引越便を商品化している。東京、大阪と、その両地域の周囲に限定してのサービス開始だった。また、この際に割れ物である皿、かさばる布団専用の梱包資材や、階段で重い荷物を運びやすくする機材などの開発をおこなっている。

1984年には、新設した引越開発部で、引越商品の全面的な見直しがおこなわれた。引越を、お客さまのニーズにあった新しいものにするにはどうするべきか、あらためて検討することになったのだ。部員は4名。ヤマウチ雅喜、のちのヤマトホールディングス社長はその一員で、昌男から、「新居でも、昨日までと同じ生活ができるようにするにはどうしたらいいか」を考えるように言われていた。たとえば、朝、父親が会社に出かけ、仕事を終えて新居へ帰宅したときに、昨日までと同じように夕食をとれるようにするための手法を追求することだった。

こうして、1985年に誕生したのが、引越らくらくパックだ。引越をする家族は、食器棚の食器を梱包する必要はない。タンスから衣服を取り出して箱に詰める必要もない。詰め、運び、取り出して、元のように納めるところまでを任せてもらう。新たに、引越バイザーという役割をつくり、引越当日は、仕事に出かけているかたとではなく、引越に立ち会うかたと綿密な打ち合わせをする。そういった仕組みを整え、引越を、家財の輸送ではなく、生活空間の移動であると定義した。この引越らくらくパックは、当時の社内では、たっきゅうびんに次ぐ第二の柱という位置づけだった。

1990年、平成2年には、たとえば、大学進学のために一人暮らしを始めるような、車を一台チャーターするほどの荷物はない引越をする人のために、ぼくの引越ツー エム スリー ボックスを発売。中部支社内でのテスト販売は好評で、対応地域はまたたくまに広がった。このように、お客さまのライフ ステージに合わせた、新たな引越サービスの開発は、そのごも続けられていった。

国内航空貨物輸送のチャレンジ

1976年、昭和51年にスタートしたたっきゅうびんが、より早く届けてほしいというニーズに応え続けられた背景には、国内航空貨物輸送を利用して、翌日配達地域を拡大したことがあった。

たっきゅうびんの翌日配達可能な地域が広がると、1982年には即日びん、1986年にはビジネス時間びん と、さらに速く、そして、正確にというニーズに応えていった。インターネットでデータを送ることなどできない時代に、ビジネス時間びんは、航空機または新幹線と、小回りの利くオートバイを組み合わせて、きめ細かな希望配達時間帯に応え、企業間の書類のやりとりなどに重宝された。1988年には、このビジネス時間びんの取り扱いエリアが26都市に拡大。これに合わせて、集荷指令システムを導入するなど利便性向上をはかった。

2003年、平成15年に商品化した、超速たっきゅうびんは、深夜貨物便を活用するもので、航空会社との粘り強い交渉の結果、実現。このサービスは、航空会社の路線運休により、2018年に終了した。

こうしたスピードへのこだわりは、2004年の、航空便スーパー エキスプレスにも受け継がれた。そして、そのごは、スピードとともに、さまざまな付加価値を組み合わせて、お客さまに最適なサービスをご提供するようになっていく。

時代を先がけた新事業の取り組み

たっきゅうびんのネットワークを活用して、お客さまの潜在需要に応える先駆的なビジネスモデルをつくり上げた事例もある。

読みたい本を書店で注文すると、取り寄せに1週間以上待つことは珍しくない。書店を介した既存の書籍の流通システムは旧態依然としたものだった。昌男は、「その流通システムに風穴をあけてみたら面白いのではないか」と、1987年、昭和62年、ブックサービスを発売した。ハガキやファクス、電話で書籍の注文を受け、それをたっきゅうびんのネットワークで配達するというサービスだった。ほとんどの出版社や、取次が理解を示さなかったが、いざサービスを始めてみると、利用者からの反応はきわめて良く、お礼のハガキも送られてきた。このサービスは、インターネット通販が普及する以前の、画期的な試みだった。

1990年、平成2年には、伝言ファクスを発売。これは、身近にファクスの利用環境がない人のため、コンビニなどに設置した専用のファクス端末機を使ってもらうというものだ。新設された情報通信事業本部により、全国に5,000台を設置しての開始となった。この取り組みもまた、たっきゅうびんの拠点と情報通信ネットワークを生かした、ヤマト運輸ならではの商品だった。

総合物流に乗り出す

ロジスティクスとは、ものの流通を効率的、発展的に管理するシステムのことで、日本では1990年代後半に、第三者の企業が物流を一元管理する、3PL、サード パーティ ロジスティクスが注目を集めるようになった。ヤマト運輸では、1996年から始まった、成熟脱皮 3か年計画で、ロジスティクス事業を新規事業のひとつとして注力する旨を掲げたが、じつは、最初のロジスティクスの取り組みは、1980年代初頭にまでさかのぼることができる。

このころ、ネコ システムの開発をはじめ、情報、通信の分野を得意としてきたヤマトシステム開発は、製菓会社から、新商品の販売システムの開発を受注した。その際、商品の保管、在庫管理も一緒に担当してほしいと依頼されたのである。そこで1982年、昭和57年、マンションの一室を借り、業務を開始した。当時、情報システム会社が、この種の業務を担当するのは珍しく、そこで働く社員には戸惑いもあったという。しかし、自分たちが現場をもつことで、突発的に起こる問題を、システムでどう解決していくかという、現場対応のシステムづくりに生かせる利点もあった。

これがきっかけで、情報システムに物流を組み合わせた、手足つき VAN サービスが始まった。手はコンピュータ、足はたっきゅうびん、VAN は通信ネットワークをさす。たっきゅうびんが全国に浸透していくのと並行して、きめ細かな情報通信ネットワークが張り巡らされた。それを活用したのだ。情報 プラス 物流 プラス 通信という、この独自のサービスは、お客さまに合わせて、経済的、効果的に最適なシステムを構築して提供していった。1987年には、パッケージ商品としてジョインツを発売。受注、物流、代金決済まですべてを代行するもので、多くの企業に利用された。そのため、各地で物流センターが必要となり、倉庫の借り上げが進められた。物流部分はヤマト運輸と連携しての業務となった。一方、ヤマト運輸内では、大口荷主のご要望に応えるかたちで、流通加工や保管などの業務もおこなってきていた。ただし、あくまでたっきゅうびんの営業の一環という位置づけで、これを本格的に事業化し始めたのは1990年代半ばだった。

1992年、平成4年、九州の有名テーマパーク内に営業所がオープンした。ここでは、パーク内のギフトショップで販売する商品の搬入、値札付け、商品管理、出庫といった作業をおこなうとともに、食品のカットや、ラッピングまで請け負った。この取り組みは、のちに物流事業のひとつとして発展していく、館内物流の先がけとなった。そのほかにも、カタログ販売や、通信販売をおこなう企業の商品の保管、管理、梱包、発送などの業務にも取り組んでいった。

ロジスティクス事業の拡大

1995年に昌男が経営から退いたあとも、お客さまのご要望に沿って、情報システムやたっきゅうびんネットワークを基盤に、保管、受注、加工、輸送までを一貫して担う、ヤマトグループならではのロジスティクス事業がかたちづくられていった。当時、宮内宏二、ヤマト運輸社長は、ロジスティクス事業について、「ひとしな、ひとしなのオーダーメイドであり、お客さま、それぞれの希望に合わせた手づくりのサービスである」と、その意気込みを語った。そのご、前述のように1990年代後半には、3PL サービスを提供する物流事業者が増えてきたため、まだ業界で手がけられていない新サービスの開発が急務となった。

そこで着目したのは、静脈物流部分だ。返品や修理依頼といった、通常とは逆方向のものの流れのことで、この部分は、メーカーが担うのがそれまでの常識だった。1997年、修理時間の短縮も見込んだ、クロネコ クイック メンテナンス サービスを発売。最初のお客さまとなったのは、精密機器の商社だった。速さと便利さが評価され、顧客が増えると、修理品の代替品の発送や、その代替品のチェックも担うようになり、修理作業そのものにもかかわるようになっていった。こうしたヤマト運輸、そしてヤマト システム開発のロジスティクス事業の一部は、2000年に統合。以後、幾多の再編を経て、グループの経営資源を有機的に結びつけ、お客さまのニーズに対して、物流全般で一貫したサービスを展開していくことになる。

ビジネス時間便のライダー。1988年。

ブック サービスの梱包発送業務の様子。1994年。

コンビニなどに設置された、専用のファクス端末機。クロネコ ファクス。1990年。

1987年に開設した、ヤマト システム開発川口物流センターでの発送作業。埼玉県。

館内物流の先駆けとなった、九州のテーマ パーク内の営業所。1992年。

2007年に完成した、ヤマト運輸神奈川物流ターミナル全景。当時、ヤマトグループ最大規模の本格的な物流ターミナル第1号で、神奈川ベースと、ヤマト ロジスティクスがはいった物流棟が併設された。

事業多角化に関わる出来事

年表の はんれい

  • 百貨: 百貨店配送
  • 区域: 区域、貸切事業
  • 美術: 美術品梱包輸送
  • 通運: 通運事業
  • 航空: 航空貨物事業
  • 海運: 海上貨物、港湾運送事業
  • 旅客: トラベル事業
  • 引越: 引越事業
  • 新じ: その他新事業
  • 物流: 総合物流事業
昭和33年、1958年美術: 美術梱包事業開始。インカ帝国文化展
昭和34年、1959年美術: 松方コレクションのフランスからの輸送を担当
昭和36年、1961年航空: 国内航空線のこんさいかもつ取り扱い開始
区域: コカ コーラの運送を受注
昭和37年、1962年航空: 国内線の利用航空運送事業の免許取得
昭和38年、1963年旅客: 航空営業所内に旅客課を設置し、旅行取扱業務を開始
昭和39年、1964年旅客: IATA より旅客代理店として認可
昭和40年、1965年海運: 港湾運送事業 (はしけ運送事業) 免許取得
昭和41年、1966年区域: 多摩工場隣接地にコカ コーラ営業所設置
海運: 港湾運送事業 (一般港湾運送事業) 免許取得
昭和42年、1967年旅客: 国内観光斡旋業務開始
昭和43年、1968年海運: 海上コンテナ第1号輸送をおこなう
航空: 海外駐在員を初めてニューヨークに派遣
百貨: 江東区東雲に東京配送センターを開設
昭和46年、1971年航空: ニューヨーク営業所開設
昭和47年、1972年区域: 読売巨人軍選手の荷物を運び始める
昭和48年、1973年引越: 引越センター開設
通運: 国鉄の東京貨物ターミナルが開業し営業所を開設
昭和50年、1975年美術: インカ文明とミイラ展、で、ミイラの輸送を担当
航空: アムステルダムにヨーロッパ初の駐在事務所を開設
昭和53年、1978年引越: 小さな引越便、発売
昭和54年、1979年新じ: 海上コンテナリース業務開始
航空: シンガポールにアジア初の駐在事務所を開設

事業多角化に関わる出来事

年表の はんれい

  • 百貨: 百貨店配送
  • 区域: 区域、貸切事業
  • 美術: 美術品梱包輸送
  • 通運: 通運事業
  • 航空: 航空貨物事業
  • 海運: 海上貨物、港湾運送事業
  • 旅客: トラベル事業
  • 引越: 引越事業
  • 新じ: その他新事業
  • 物流: 総合物流事業
昭和56年、1981年美術: 大ヴァチカン展、および、大マンモス展の作業を担当
海運: 国際引越業務開始
昭和58年、1983年旅客: オリジナル パッケージ旅行商品、キャッツ アイ ツアー、発売
昭和60年、1985年引越: 引越らくらくパック、発売
昭和61年、1986年航空: ビジネス時間便、発売
昭和62年、1987年新じ: ブック サービス、発売
美術: ゴッホの ひまわり の輸送を担当
平成2年、1990年引越: ぼくの引越ツー エム スリー ボックス、発売
新じ: 伝言ファクス、発売
平成5年、1993年通運: 業界初の、30フィート コンテナ運用を、隅田川駅̶、札幌貨物ターミナルで開始
引越: ぼくの海外引越、発売
平成6年、1994年引越: 引越らくらくエコノミー パック、発売
平成7年、1995年引越: 引越らくらく海外パック、発売
平成8年、1996年引越: 収納便、発売
平成9年、1997年物流: クロネコ クイック メンテナンス サービス、発売
平成12年、2000年物流: 3PL、サード パーティ ロジスティクス 事業に本格参入
平成13年、2001年引越: ぼくの引越ツー エム スリー ボックスを、クロネコヤマトの単身引越サービス、ツー エム スリー ボックスとしてリニューアル
平成15年、2003年航空: 超速たっきゅうびん、発売
平成16年、2004年新じ: クロネコ ボックス チャーター便、発売
平成17年、2005年引越: らくらく家財たっきゅうびん、発売

おぐら まさおの言葉。社内報、巻頭言、とまり木 より

運賃をタダにする?

ところで、もしも、もしもですよ、約束通り、翌日に配達にならなかったら、どうします。私は、その場合、お客様を裏切って、満足を与えなかったお詫びに、運賃を全額お返ししたいと思うが、どうですか。ヤマトは常に良いサービスを提供する。そして、運賃は、サービスに対するお客様の満足の対価として頂戴していることを、はっきり打ち出す姿勢が、必要なのではないだろうか。ヤマトニュース、1976年6月、242号より。

働きがい

たっきゅうびんを始めて良かったと思うことのひとつは、お客様の喜びが、じかに伝わってくることである。中略。しかし、お客様の声は必ずしも良いことばかりではない。中略。たっきゅうびんを始めてみて、会社は営利を目的とするという言い分は間違っていたのではないかと思う。私達は、お客様を喜ばすことを目的に仕事をする。お客様はそれに感謝し、その仕事が長続きするように会社を儲けさせて下さる。それが正しいのではなかろうか。お客様に喜んで戴くために、毎日、精を出す。お客様を悲しませるようなことは絶対にしない。これこそ働きがいである。ヤマトニュース、1978年12月、271号より。

私の遺言

ヤマトの絶対目標はなにか。それは、お客様の立場に立って考える、よいサービスの実行である。中略。現場には目標がいっぱいある。売り上げも、事故ゼロも、時短も達成しなければならない。しかし、常に絶対目標があることだけは忘れずに、経営理念のはっきりした会社であって欲しい、これが私の遺言だ。ヤマトニュース、1992年7月、433号より。

目次へ戻ります。