1. おぐら やすおみが取り組んだ多角化
事業の多角化への道
ヤマト運輸が事業の多角化に乗り出したのは、第1章でも触れた1946年、昭和21年、進駐軍関連の仕事の受注がきっかけだった。その仕事ぶりが認められたことから、関連業務はそのごも続き、トラック運送だけでなく、通関、航空貨物、海上貨物などにも手を広げ、1953年には梱包輸送、航空、海運の各業務を統括する事業部を設立し、業務拡大の基盤を築いた。
百貨店配送の展開
百貨店配送も、戦後、大きく拡大した事業だ。もともとは1920年、大正9年の大恐慌の影響で減少した仕事を増やすため、おぐら やすおみが開拓した分野のひとつだった。1922年に三越呉服店の注文で横浜まで家具を運んだのを契機に、東京市内の配送を一手に引き受けるなど業務を拡大し、安定的な収入源とした。
この配送業務は戦争によって中断したが、1949年、昭和24年、三越百貨店が都内配達を復活させると同時に、ヤマト運輸の業務も再開し、三越大手町別館に三越出張所を設けるに至った。百貨店配送は、このご、三越のほか、白木屋、松屋、伊勢丹、髙島屋、小松ストアーなどへ拡大し、ダイマルが東京へ進出すると、その業務も一手に担うなど広がりを見せた。
昭和30年代から40年代にかけて、小田急百貨店や京王百貨店など、鉄道系百貨店が相次いでオープンすると、それらの配送業務も手がけ、1968年には江東区東雲に東京配送センターを開設している。
百貨店配送が伸びた時期は、それまでの基幹業務である路線事業の業績が不況の影響で減少した時期でもある。百貨店業務は徐々に、ヤマト運輸の経営基盤を支える大黒柱となっていった。しかし、第2章で述べたように百貨店業務には固有の難しさもあった。繁忙期の存在だ。そこは、2トン コンテナを導入し、迅速に各方面に発送するなどして乗り切った。1960年代には、工夫を凝らして継続した百貨店配送が、ヤマト運輸の業務全体の2割近くを占めるまでに成長した。
戦前、戦後の区域、貸切事業
委託された企業の製品、荷物を専門に運ぶ区域、貸切事業も大正時代に芽生え、戦後に大きく育った事業だ。事業確立の発端は1923年、大正12年、関東大震災の際、陸軍省に救助品などを運搬するトラックを10台、貸し出したことだ。そのごも、逓信省、文部省、くない省などの官庁や、東京府、横浜市などの自治体に、同様のサービスをおこなってきた。
その対象を民間にも広げたのは昭和初期だった。1927年、昭和2年に、阪川牛乳店と牛乳運搬用トラックのジョウヨウ契約を締結し、そのごは、丸善、大日本雄弁会講談社、主婦の友社などと配達請負契約を結んでいる。
戦後になると、民需輸送はこの区域、貸切事業から再スタートを切った。築地営業所を京橋作業所と改称し、営業を開始したのは、終戦から1カ月足らずの1945年9月10日。入手困難なガソリンとともに荷主から持ち込まれたのは、鮮魚や野菜、果実などの食料品が中心だった。
そのご、扱う荷物には、企業拠点移転に伴う引越の荷物などが加わっていく。ユニークなところでは、全国で興行するプロレス団体のリングの運搬、設営や解体なども担った。
戦後に手がけた事業のひとつに家財の梱包輸送がある。冒頭で触れた進駐軍で、軍人の転居や、帰国に必要な家財道具の梱包輸送がその第一歩だった。米軍が弾薬や兵器の梱包に使っていた防水シなども活用した。引越にあたっては、小さな皿一枚に至るまで、従業員が梱包し、軍人やその家族には、荷物に手を触れるなどの手間をかけさせなかった。この仕事がピークを迎えたのは、1950年に勃発した朝鮮戦争のさいちゅう。1日に数件というペースで引越をこなすため、日が暮れると、トラックのライトを灯して梱包作業をおこなったほどだった。米軍に関する業務は、1957年から、アメリカのアライド ヴァン ラインズ社との提携のもとで進んだ。作業量が増えたため、同社からの5トン コンテナも活用した。この提携は、在日米軍の減少などにより解消されるまで、5年間続いた。
このころの技術や拠点を生かして、のちに手がけた仕事には、各国の大使や、公使の家財道具の梱包輸送、さらには、1959年の皇太子ご成婚記念関係の作業がある。
プロ野球の読売巨人軍選手の荷物を運び始めたのは、9連覇の最中の1972年のことだった。その2年後に現役を引退し、監督に就任した長嶋茂雄監督からは、社内報の取材の中で、「ヤマトもジャイアンツの一員である」との言葉をもらった。ほかにも、グアム島で発見された残留日本兵の横井庄一さんの帰国時や、エリザベス女王、ご一行、ローマ法王ヨハネ パウロ2世の訪日時など、多くの歴史に名を刻んだ著名人の荷物を運ぶ機会があった。
話題作も扱った、美術品梱包輸送
美術品梱包輸送は昭和30年代に始まった。米軍関連事業が縮小し、1956年度の経済白書に記されたとおり、日本は、もはや戦後ではなくなりつつあった。
美術品を運ぶという発想は、社員の個人的体験から生まれた。知人の自宅で、重要文化財クラスの美術工芸品を見せてもらった際に、こうしたものを運ぶニーズもあるのではないか、と気づいたのだ。世の中を見わたすと、新聞社などが美術展を主催するようになっていた。
最初の仕事は、1958年の5月からのインカ帝国文化展、6月にはローマ展も請け負った。現在、国立西洋美術館の庭にたたずんでいるロダンの 考える人 も、ヤマト運輸が運んだものだ。こうして実績を積むのと前後して、東京国立博物館から1年間にわたり、美術品の扱いや、梱包について学ぶ機会を与えられた。
このころ、康臣は梱包状態や、輸送環境もさることながら、従業員には身なりと態度にも十分に注意するよう教育していた。もともと社内には、制服や車は清潔に保つという文化があったが、扱うものが美術品なら、いっそう配慮が必要だと考えていたのだ。
これまでに多くの美術品を運んできたが、その中でふたつ、歴史に刻むのにふさわしい美術品がある。ひとつはミイラ、もう一つは、ひまわり だ。ミイラとは、1975年に開催されたインカ文明とミイラ展で、最も注目された展示品だ。担当者はペルーへ渡り、文化庁と税関の担当者、公証人立ち会いのもとで、11たいのミイラを梱包した。最も弱いのは首。もげてしまわないよう、上質の茶碗を扱うようにして梱包作業をおこなった。ひまわりとは、ゴッホの作品のことである。1987年に日本の大手損害保険会社がオークションで、この作品を58億円で落札し、世界的なニュースになっていた。その絵の輸送を依頼されたのだ。このときは、梱包状態だけでなく、輸送中のセキュリティにも十分に配慮した。ただし、大げさな警備体制はとらず、担当者がひとりで、ロンドンから飛行機で持ち帰ってきた。その担当者がどの便に乗るかは公表せず、秘密りのうちに輸送は完了したのである。
こうした目立たないための工夫は、美術品専用車両の開発時にもとりいれられた。防湿、定温が求められるからこその専用車両であり、初期の車体には美術品専用車両と大きく記されていたが、そのごは、表示を削除し、一般車両と変わらないものに変更された。
1988年には、アートボックスが開発された。たっきゅうびんで絵画を送れるようにした梱包資材だ。きっかけは、日曜画家の作品のコンクール展のために、上野の森美術館から、集配しやすい梱包資材について相談を受けたことだった。アートボックスの利用で、コンクール展には、最高で6000点の作品が寄せられた。
信頼を獲得した、区域、貸切事業
康臣が取り組んだ区域、貸切事業の中で、最後に触れておきたいのが、東京コカ コーラ ボトリングとの仕事。スタートは1961年で、芝浦にあった工場から米軍 三沢基地までの輸送を担当した。従業員の中には、コカ コーラが何かを知らない者もいた時代だ。そのご、多摩に工場ができると需要は激増し、1964年には高浜町支店内にコカ コーラ出張所、1966年には工場の隣接地にコカ コーラ営業所を設置し、1968年にはコカ コーラ営業本部を設立するに至った。当時の区域事業の中で最も高いシェアをもっていたのである。のちには工場の空き瓶、缶の補充や、出荷を待つ商品の移動、酒屋や問屋への配送なども担当するほどの信頼を獲得。この事業は2009年、平成21年まで続いた。
屋台骨を支えた通運事業
戦後復興期には、トラックによる輸送だけでなく、国鉄を利用した通運事業に乗り出した。ひとつの駅につき、1業者という、それまでの制限がなくなったのを機に、1949年、昭和24年に、都内の主要貨物駅である汐留、秋葉原、いいだまち の通運免許を取得。進駐軍の仕事で培った人脈による情報で、いち早く免許申請書を提出できたのである。
営業は1950年に始まった。鉄道輸送と、ヤマトビンの路線もうを組み合わせたこぐちこんさいは人気を集め、3年目には事業は黒字に、さらに2年後には全社収入の2割以上を占めるまでになった。
ただし、通運事業は、世間の景気の影響を強く受ける。1956年からは神武景気の余波で取扱数量は増えたが、1958年の なべぞこ不況で下落に転じた。しかし、そのような中でも、フォーク リフトやパレットを導入して合理化を推進。1959年に国鉄がコンテナ列車の本格運行を始めると、ヤマト運輸も積極的にこれにかかわり、1960年に東京、大阪間でトラックの運行を始めてからも、その姿勢は変えなかった。
結果として、この通運事業は順調に業績を伸ばし、昭和40年代後半まで増収を続け、この時期のヤマト運輸の屋台骨を支えた。
航空貨物、海運、旅客への展開
創業のころから ときと競うことに注力してきた康臣が、飛行機に着目したのは当然だった。1932年には、スピードを必要とするお客さまのために、航空貨物輸送事業に乗り出している。
戦後は1950年に駐留軍人の引き揚げ荷物の通関業務から再開。税関貨物取扱にんの免許を取得し、翌年には国際航空運送協会、 IATA に非加盟の、台湾の航空会社、シヴィル エア トランスポート、 CAT との客貨の代理店契約を締結し、貨物の取扱業務を開始した。 IATA 貨物代理店の資格を取得したのは1955年。代理店として、航空業務の拡大が一段と、はかられた。
国際航空貨物の取扱量は飛躍的に増加し、さらなる成長を期待して、1968年には駐在員をニューヨークへ派遣。ヤマト運輸にとって初めての海外駐在員だ。1971年にはニューヨーク営業所、翌年にはロサンゼルス駐在事務所、さらに1975年にはヨーロッパで初となるアムステルダム駐在事務所を開設した。
国内の航空貨物輸送については、1962年に航空運送事業免許を取得し、1973年までに、沖縄を除いた主要幹線での自営化を完了した。これにより、首都圏と地方を高速に結ぶネットワークが確立できた。
海上貨物、港湾運送事業に参入したのは1952年。このきっかけも駐留軍人の引き揚げ荷物の扱いで、梱包だけでなく、輸送、船積み、税関手続きなどの資格を必要に応じて取得していくうちに、一貫輸送体制が構築され、当初は他社に任せていた、はしけ運送まで自社で手がけるようになった。
海上コンテナ輸送にも、いち早く対応した。1967年、品川埠頭に従業員の姿があった。目的は、アメリカから初めてやってきたコンテナせんをその目で見ることだ。それはまるで新時代の到来を告げる黒船のように見えたという。積まれていたのは325本の10フィート コンテナだが、今後は大型化が進むだろう。そう直感した従業員の声もあり、同年中に、海上コンテナの陸上輸送テストを実施した。さらには社内体制も整え、1968年には、ジャパン ライン、現在の商船三井との協業で、海上コンテナ第1号輸送をおこなった。千葉県野田市から横浜港まで、コンテナの中身は醤油だった。
そのご、コンテナの荷さばき、コンテナのリースなど関連業務も手がけるようになり、1977年には極東リース、現在のヤマト リースを設立。こうしてドア ツー ドアの国際 複合一貫 輸送体制が構築できた。1979年には海外から、遊園地向けの大型遊具や、ジャンボ ジェット機よりも大きな飛行船も輸送した。
旅行事業を手がけた時期もある。1963年には旅行取扱業務を、1967年には国内観光斡旋業務を開始している。
自社ブランドのパッケージ ツアー、キャッツ アイ ツアー が誕生したのは1983年。航空海運事業本部から独立したトラベル サービス本部による企画だ。この2年後、プラザ合意により円高が進むと、海外へ出かける旅行客は急激に増加しているので、それを先取りしたかたちとなる。キャッツ アイ ツアーでは、和泉雅子と行く北極冒険ツアーや、小松原三夫プロと行く北京ゴルフ ツアー など、さまざまなパッケージを提案した。このトラベル事業は2001年、平成13年まで継続した。