1. たっきゅうびん、営業開始
関東一円の、ヤマトビンの路線網を活用
1976年、昭和51年1月20日、関東を中心にたっきゅうびんが始まった。関東ですぐに着手できたのは、先代社長のおぐら やすおみが築いていた、ヤマトビンの路線網があったからだ。このときすでに、イット六県をカバーする、ヤマトビンの営業所と、百貨店の配送網が存在していた。さらに、深川、杉並、板橋、東京の、ヤマトビン 4営業所をたっきゅうびんの拠点に変更して、営業を開始した。
初めて集計を開始した1月23日に記録された荷物の数は11個。それから2月25日までの月間合計でも、わずか8,591個。既存の小口貨物をたっきゅうびんに切り替えてもらうという手を打っても、なかなか数字が伸びない。宣伝が不十分だった割には数があつまったともいえるが、その様子を見て都築幹彦は、「たいへんがっかりした」と語っている。
8月にはいると、たっきゅうびんの荷受けを専門におこなう直営店も設置した。1号店は埼玉県深谷市。ネギやキュウリの漬け物などの出荷を見込んでいた。東京、中野たっきゅうびんセンターは、クリーニング店を改装してオープン。しかし、1週間たっても、荷物はひとつも持ち込まれなかった。寄せられる問い合わせも、たっきゅうびんについてではなく、一般貨物や引越に関するものばかり。ふたりしかいないスタッフの主な仕事は、駅前でのチラシ配り。これを午前と午後おこなった。荷物があつまり始めたのは1カ月ほどたってからだった。隣にあった葬儀屋も、香典返しに使ってくれるようになった。それでも、現場、そして経営陣の顔色は冴えなかった。たっきゅうびん開始以前から扱っていた商業貨物は、同業他社のところへ流れている。なんとかして、家庭から出る荷物を集めなくてはならない。
取扱店が果たした役割
限られた人員で、どこからいつ出るかわからない荷物を、もれなくどうやってあつめるか。どういう仕組みがあれば、荷物を出そうと思った人々は便利に感じてくれるか。それは近くに受付窓口になる取次店 (以下、取扱店) があることだと結論づけたおぐら まさおは、お客さまの自宅から100メートル以内に取扱店があるくらいの分布を想定した。そこで、家庭の主婦にとって、なじみのある店を拠点として活用しようと考えた。燃料店や米屋、酒屋などだ。社員の仕事には取扱店を増やすことが加わった。1976年10月に契約した都内の取扱店は24店舗だった。
このころに取扱店になった店のひとつに、栃木県那珂川町の酒屋、三島屋商店がある。ご家族は当時を振り返って、「すぐにいちにちに100個ぐらい荷物を持ち込まれるようになり、伝票 (のちに、送り状と改称) を書くためにアルバイトを雇ったほど。三島屋に持っていくと早い気がするとよく言われました。取扱店をやって良かったことは、お客さんの役に立てて、喜んでもらえたこと」と話されている。
1978年には、運輸省から、「取扱事業認可を得ていない取扱店が、荷受けや、運賃の徴収をするのは違法だ」との通達を受けた。このときは警察庁にたっきゅうびんの利便性を訴え、粘り強く交渉をおこない、交差点や道路の角地にある店は認めないことを条件に、荷扱所の申請を受理してもらった。新しい事業を興すときには、時代にそぐわなくなった法律と戦う必要があることを痛感させられた出来事だった。
取扱店の数は、1981年3月末には、1万2000店を超えたが、このころから他業者の宅配びん市場への新規参入が相次ぎ、取扱店の獲得競争が激しさを増していった。この市場を成長させていくうえで、取扱店はそれほど重要視されていたのだ。1982年10月、取扱店への情報提供と取扱店相互のコミュニケーションを促進するために、クロネコだよりが創刊され、その巻頭のあいさつで昌男は、「どんなに立派なシステムも、それが手軽に利用できるものでなければ役に立ちません。そこで、お客さまの身近な窓口である取扱店の皆さまが、重要な役割を果たすのです。優れた取扱店がなければ、優れたサービスはできないのです」と述べた。
ヤマト運輸は、取扱店の設置基準を見直し、大都市は丁目ごとにいってん、地方の市は町名ごと、郡部は おおあざごとにいってんずつを設置して、全国10万店体制をめざして、取扱店の獲得に力をそそいでいった。その結果、1983年3月末に4万4,449店、1985年3月には11万6,165店へと増やし、当初の目標を達成した。そして、この取扱店ネットワークをさらに飛躍的に拡大するきっかけになったのは、コンビニエンス ストア (以下コンビニ) だ。1970年代後半から、24時間営業のコンビニが普及し始め、米屋や酒店がコンビニ チェーンに加盟する動きも出てきていた。そこで、全国展開をしているコンビニ チェーン各社と交渉を重ね、契約を交わしたことで、チャネルが拡大し、1989年、平成元年3月、取扱店数は20万店に達したのである。
たっきゅうびん PR の苦心
電話一本、翌日配達、というキャッチフレーズで立ち上げたたっきゅうびんだが、最初の課題は、その存在を広く知ってもらうことだった。そうしなければ、荷物を増やすことはできない。そこで、テレビ CM を制作することにした。
最初の CM はアニメーションで、たっきゅうびんが始まってから1か月ハン後の1976年、昭和51年3月に放送された。放送直後から、本社に問い合わせの電話が数多く寄せられ、ちょうど、5万個運動月間として取扱量を増やそうとしていた時期だけに、大きな追い風となった。そのごは、タレントを起用するようになる。最初に白羽の矢が立ったのは、元、宝塚のトップスター、あしはら邦子さんだった。共演は社内から抜擢された、首都圏主管支店所属、荒川高光。親しみやすさが決め手だった。続いて、ハツラツとした明るさが人気の女優、和泉雅子さんにもたっきゅうびんの顔を担ってもらった。1979年に、クロネコヤマトのたっきゅうびん、という軽快な CM ソングを流すようになると、発売から3年で、たっきゅうびんという言葉が一気に浸透していく。
社内の雰囲気も大きく変わった。たっきゅうびんの開始当初、社内には不安の声もあったが、テレビ CM でその存在が知られると、家で子どもから、「お父さんはたっきゅうびんの仕事をしているの」と聞かれるようになる。父親としてはそこで胸を張って、「そうだ」と答えたい。「お父さんはたっきゅうびんには反対で、別の仕事をしているんだ」とは言いたくない。結果、テレビ CM は、社内でのたっきゅうびんへの求心力も高めることになった。
たっきゅうびんの知名度向上に尽力した面々はほかにもいる。ヤマト運輸 OB があつまり結成した、個人タクシー ヤマト会だ。ヤマト会は、タクシーのシート カバーにたっきゅうびんのポスターを挟み込む、車内にチラシをつり下げるなどの PR 方法を考え出し、実行に移していった。
1976年8月に開設した、中野たっきゅうびんセンター。
栃木県那珂川町の酒屋、三島屋商店。1980年代に撮影。
たっきゅうびん開始当時の取扱店看板。
クロネコだより、創刊号。1982年10月。
アニメーションによる最初のテレビ CM 。1976年3月。
最初の CM キャラクター、葦原邦子さんと、社員の荒川高光。1976年。
個人タクシー、ヤマト会による PR 協力。1976年3月。
年表の はんれい
A. たっきゅうびん成長にかかわる出来事。
B. 同時代の出来事。
昭和51年、1976年 | A. 関東地区において、たっきゅうびん、発売 |
A. 初めてのテレビ CM 放映 |
A. 女優、葦原邦子さんと広告出演契約 |
A. 直営店第1号として埼玉深谷、東京中野にたっきゅうびんセンターを開設 |
A. たっきゅうびんの取次店、現在の取扱店、設置開始 |
A. たっきゅうびん取扱店用看板の取り付け開始 |
昭和52年、1977年 | A. たっきゅうびん取扱店用スタンド看板、設置開始 |
A. たっきゅうびん回数券、発売 |
A. たっきゅうびん月間取扱個数、100万個、達成 |
昭和53年、1978年 | A. たっきゅうびん 新送り状の実用新案登録出願 |
A. 女優、和泉雅子さんとポスター、 CM の出演契約 |
A. たっきゅうびん最初の大型ターミナル、首都圏主管支店、竣工 |
B. 新東京国際空港 (成田) 開港 |
昭和54年、1979年 | A. たっきゅうびん、 M サイズ発売 |
A. たっきゅうびん用包装資材、ハートボックス、発売 |
A. たっきゅうびん年間取扱個数、1000万個達成。1978年度 |
A. たっきゅうびんの日曜、祝日営業を正式に開始 |
A. たっきゅうびん CM ソングを制作、ラジオにて放送開始 |
昭和55年、1980年 | A. たっきゅうびん送り状にバーコードを導入 |
A. 第2次 ネコ システム、運用開始 |
昭和56年、1981年 | A. ダントツ 3か年計画、スタート |
A. たっきゅうびん新集配シャ、ウォークスルー 1トンしゃ、試作第1号シャ、完成 |
A. 東京証券取り引き所、第一部銘柄に復活 |
A. 取扱店に設置する、たっきゅうびん、のぼり旗、誕生 |
A. たっきゅうびん月間取扱個数、1000万個達成 |
昭和57年、1982年 | A. 漢字の ヤマト運輸株式会社から、カタカナのヤマト運輸株式会社に商号変更 |
A. 取扱てん向け広報紙、クロネコだより、創刊 |
B. 五百円硬貨、発行 |
昭和58年、1983年 | A. 国際たっきゅうびん、発売 |
A. たっきゅうびん P サイズ、発売 |
A. スキーたっきゅうびん、発売 |
B. 東京ディズニーランド開園 |
動くものの訴える力
取扱店の店先で はためく、たっきゅうびんの のぼり旗。これが誕生したのは1981年、昭和56年10月のことだった。高崎主管支店営業課の社員が、看板だけでは目立たない、と、前橋の染物屋につくってもらったのが最初だ。黄色の生地に赤い文字。サンプルを受け取った本社営業部では、「田舎芝居の興行みたいだ」と不評だったが、おぐら まさおはそれを高く評価した。風に はためく旗のように、動きのあるものは、道行く人の目を引く、それが理由だった。こうして全国で、のぼり旗がひるがえるようになった。色使いこそ異なるが、今では津々浦々で風景になじんでいるあの旗は、ひとりの社員のアイデアと、そこに良さを見い出した昌男によって、世に送り出されたのである。
2. 全国ネットワークへの道のり
たっきゅうびん中心に事業転換
1977年、昭和52年12月、たっきゅうびんの月間取扱個数が100万個を突破した。前年にサービスを開始した当初と比較すると、恐ろしいほどの急成長だが、昌男は満足はしていなかった。たっきゅうびんによる売り上げは、いまだ全体の9パーセントにとどまっていたからだ。現場には、なお、小口貨物を嫌い、長年親しんできた、大口貨物を優先させようとする空気が残っていた。
そこで、昌男は退路を断つ。1979年春、大口貨物からの全面撤退を指示したのだ。長年続けてきた大手電機メーカーとの取り引きもすべて辞退することになった。当然のことながら売り上げは落ちたが、退路をたったことによって、ヤマト運輸はたっきゅうびんの会社として存続していくという気運を高めた。劇薬は即座に効果を発揮し、翌年には落ちた売り上げは回復した。さらに、同年に、サービス業では当たりまえだった日曜祝日営業を始めたこともあり、1981年3月末には年間の取扱個数が3,000万個を超えた。
全国ネットワークへの想い
取扱個数が増えたのは、エリアが拡大し、たっきゅうびんを利用できる人が増えたからだ。しかし、当初のたっきゅうびんで翌日配達が可能だったのは、都市部など一部の地域に限られていた。
昌男はそれをよしとはしなかった。たっきゅうびんを開始する前から、全国での展開を構想していた。全国どこからでも荷物を預かり、どこへでも届けられるようになることが、サービスとしての質を上げ、他との差別化をはかり、より多くの人に喜んでもらえることにつながると考えていたからだ。
たっきゅうびん開始前年の1975年に支社制度を導入したのは、各地域で、ニーズに応えながら配送網を広げ、全国ネットワークを確立するためだった。1986年の、センターネットワーク構想では、市、区、郡にいってん以上、4万世帯にいってん、テリトリーは半径20キロメートル以内で30分程度という条件で、いくつの店舗が必要になるか試算をおこなっている。答えは1,200店舗。その数は当時の警察署の数と同じだった。この目標は1994年度、平成6年度に達成されている。
ダントツ 3か年計画で、エリア拡大エ
たっきゅうびんを、わが地方にも。たっきゅうびんの噂を聞きつけた人たちからの声は、日に日に高まっていた。それにスピーディに応えるため、サービスエリアの全国展開は急務となった。会社の存続と成長のためにも、エリア拡大を軸としたサービス向上は欠かせないものとなった。たっきゅうびん人気を当て込んで、この市場に参入してきたのは、すでに、35ブランド、113社にのぼっていたのだ。大手各社は、ヤマト運輸のネコマークにならい、動物をシンボルマークとしていたことから、業者乱立によるこの競争は、動物戦争と呼ばれた。
1981年、昭和56年、他社を引き離し、トップを独走することを目的に、ダントツ 3か年計画 が始まった。社内公募から選ばれたこの名前は、のちの、新ダントツ 3か年計画、ダントツ 3か年計画 パート スリー に引き継がれていく。合計9年間の計画実施の結果、たっきゅうびんのサービスエリアは面積比、全国の99.5パーセントに広まった。ダントツ 3か年計画を立ち上げたのには、社内を鼓舞し、エリアを拡大するほかにもねらいがあった。たっきゅうびんを全国に広めるのだという意志を、路線免許の認可権をもつ運輸省に見せつけることである。
路線免許獲得のあゆみ
運輸省へのアピールが必要だったのは、各地方で路線免許の申請をしても、なかなか認可が下りなかったからだ。理由は、地元業者の反対と、運輸省の審議遅れである。家から家へ荷物を届けるたっきゅうびんは、従来の路線事業とは一線を画すものなのだが、地元業者には、それをなかなか理解してもらえない。運輸省の腰も重く、いつまでたっても話が前に進まない。その間にも、たっきゅうびんを待つ人たちの声は大きくなっていった。免許を必要としない軽車両でのエリア拡大にも取り組んだが、もくろみどおりに、ことは運ばなかった。
サービスエリアである首都圏に近接する山梨県からの声はひときわ響いた。1980年8月に国道20号線の路線免許、八王子、甲府、塩尻間、を申請したものの、運輸省からは音沙汰がない。その背景には、地元の13業者からの猛反対があった。少しずつ反対する業者は減っていくものの、最後の1社が首を縦に振らない。望みは公聴会に託された。1984年1月18日、昌男が「たっきゅうびんは、全国ネットワークを完成することによって利用者のニーズを満足させることができる」と主張するなど、3時間に及ぶ応酬が繰り広げられた。その結果、運輸省は同年5月、申請どおり認可した。申請から3年9カ月がたっていた。8月1日、ようやく甲府主管支店がオープンすると、その日だけで744個の荷物が集まった。大半は名産のモモやブドウだった。
同じような変化は九州や、キタ東北、伊豆など、全国各地で相次いだ。ただし、全国ネットワーク完成への道は、ヤマト運輸がすべて自前で切り拓いていったわけではない。地方の路線事業者との提携や、路線営業権の買収、譲渡なども大きな役割を果たしている。1982年には鹿児島県の富士運送の経営に参画。社名を九州ヤマト運輸と改称し、進出が遅れていた南九州地区のたっきゅうびんネットワークの整備を進めた。1983年には、広島県の芸備自動車の経営を引き受け、広島県から山陰地区を結ぶ地域の大部分をカバー。そのご、1987年、同社の路線部門の譲渡を受け、中国支社に組みいれた。1990年、平成2年には、四国高速運輸の全株式を譲り受け、系列化、社名を四国ヤマト運輸に改称し、四国4県のたっきゅうびんネットワークを整えた。1991年6月には、長く協力関係にあった福井輸送が営業権を譲渡してくれた。同社の岡島ヒデオ社長が、当時、社長を務めていた都築幹彦が社長を退くと聞き、心残りだろうからと決断してくれたのだ。これによって、全都道府県で、直営によるたっきゅうびんの営業を開始することができたのである。こうして、この6年後の1997年11月、小笠原諸島のエリア化により、全国ネットワークは完成した。たっきゅうびん開始から21年後のことだった。
国道20号線の路線免許に関する公聴会で、冒頭陳述をおこなうおぐら まさお社長。1984年1月。
甲府主管支店開所式。1984年8月。
北東北路線の路線免許 (仙台、盛岡、青森間) に関する公聴会で、冒頭陳述をおこなうおぐら まさお社長。1986年10月。
富士運送本社。鹿児島。
四国高速運輸本社。徳島。
ヤマト運輸の宮内社長と、福井輸送の岡島社長による、営業権譲渡調印式。1991年。
年表の はんれい
A. たっきゅうびん成長にかかわる出来事。
B. 同時代の出来事。
昭和59年、1984年 | A. たっきゅうびん年間取扱個数、1億個達成。1983年度。 |
A. 新ダントツ 3か年計画、スタート |
A. ゴルフたっきゅうびん、発売 |
A. スキーたっきゅうびん、大雪で混乱 |
昭和60年、1985年 | A. たっきゅうびん取扱店、10万店を突破。129,342店。 |
A. たっきゅうびんの、在宅時 配達制度、開始 |
A. たっきゅうびんの着払い制度、開始 |
A. たっきゅうびん 約款、制定 |
B. 男女雇用機会均等法、成立 |
昭和61年、1986年 | A. 音楽たっきゅうびん、開始 |
A. コレクトサービス、発売 |
昭和62年、1987年 | A. UPS 社と業務提携し、 UPS たっきゅうびん、発売 |
A. ダントツ 3か年計画 パート スリー、スタート |
B. 国鉄分割民営化 |
昭和63年、1988年 | A. クールたっきゅうびん、発売 |
A. たっきゅうびんモデルチェンジを実施。サイズを四区分に、料金一部改定、夜間お届けサービス開始。 |
B. 青函トンネル開通 |
昭和64年、平成元年、1989年 | A. 空港たっきゅうびん、発売 |
B. 昭和天皇崩御、平成に改元 |
B. 消費税、導入。3パーセント |
平成2年、1990年 | A. キックオフ 90、3か年計画、スタート |
A. 創業70周年を記念し、制服 全面改定 |
A. 本社 社屋新築移転。五代目。現在の本社ビル |
A. たっきゅうびん運賃改定、実施。1個あたり、一律100円値上げ |
B. 物流二法施行 |
平成3年、1991年 | A. シロネコ、クロネコのキャラクター誕生 |
A. ヤマト運輸70年史、刊行 |
A. 福井輸送より、たっきゅうびん営業権を取得し、都道府県単位の全国自社ネットワークが完成 |
平成4年、1992年 | A. たっきゅうびんタイム サービス、発売 |
B. 国連、地球温暖化防止条約、採択 |
平成5年、1993年 | A. クールたっきゅうびん、モデル チェンジ。3温度帯から、冷凍、冷蔵の2温度帯へ |
A. 社風刷新 3か年計画、スタート |
A. たっきゅうびん月間取扱個数 1億個、達成 |
B. 欧州連合 EU 発足 |
たっきゅうびん取扱個数とどら焼き
1977年、昭和52年12月に、たっきゅうびんの月間取扱個数が100万個に達したとき、社員には、老舗和菓子店のどら焼きが配られた。1978年度に年間1000万個、1981年12月に月間1000万個、1983年度に年間1億個を達成したときにも配布され、そのサイズは、配られるたびに大きくなり、中央にはネコマークの焼き印が押されている。1983年度のものは、直径15.5センチメートル、厚さ4センチメートル、重さ293グラムの堂々としたもの。これが10万個も用意された。いつのまにか定着した、この慣習も、もともとはたっきゅうびんという、まったく新しいサービスへかける思いの表れだった。
社員に配布された、ネコマークいりのどら焼き。1981年12月のたっきゅうびん、月間1000万個達成時のもの。
3. 新商品開発から一歩先へ
ニーズ別の新商品
たっきゅうびんはエリアを拡大する一方で、運べる物も増やしてきた。1982年、昭和57年当時の長野支店では、リンゴの出荷が一段落し、雪の季節になると、運ぶ荷物の量が激減した。冬場に運べる物はないか、と思案する社員の目に、スキー客の姿が止まった。長くて重いスキー板を担いで歩いている。これを運べないかと考えた。スキー板は縦、横、高さの合計が1メートル以内というたっきゅうびんの規定を超えるが、この運搬を肩代わりすれば、きっと喜ばれるに違いないと思った。12月、長野支店で、スキー手ぶらサービスとして提供を始めると、翌年4月までに1万7,000個の利用があった。本社もこれに注目。包装資材にも工夫を凝らし、スキーたっきゅうびんとして全国的な商品に育て上げた。
1984年にはゴルフ バッグをゴルフ場へ運ぶ、ゴルフたっきゅうびんも商品化。よく似た名称のゴルフ場が多いこと、当日配達ではなく、プレー前日に届ける必要があることなど、独自の課題にも対応した。横にするとバッグの中のクラブを破損する恐れがあるため、ゴルフ バッグ用ケース、ゴルフ バッグ運搬車を開発し、意匠登録した。
冷たい物を、冷たいまま届ける。これを現実のものとしたのが、クールたっきゅうびんだ。たっきゅうびん開始後、お客さまから、新鮮なものを送りたい、というご要望が寄せられるようになり、現場では発泡スチロールに氷を詰めるなど、さまざまな試みが始まっていた。プロジェクト化されたのは1984年。新ダントツ3か年計画に組み込まれた。開発コンセプトは、個人向けに、どんな荷姿でも、適した温度で輸送できる、いつでも、だれでも、どこででも利用できる商品だ。
検討を始めて最初にわかったのは、そのスタートには莫大な投資が必要になることだった。それでも昌男は、確実にある需要を満たすことを優先した。かかった費用は、冷蔵庫、冷凍キャビネット、凍結庫、低温仕分室、低温保管庫などで約150億円。このほか、電気を使わずに冷温状態を保てる蓄冷材を、メーカーの協力を得て開発している。当時流行しつつあった、冷蔵庫のチルド機能からヒントを得て、温度帯は5度、0度、マイナス18度の みっつとした。東京23区内での試験を経て全国で発売したのは1988年。ちょうど、バブル景気によるグルメ ブームで、個人消費も拡大した時期だった。クールたっきゅうびんは、産地直送によるお取り寄せを可能にし、お客さまの需要に着実に応え、やがては、地域経済の活性化にもつながっていった。温度帯はサービス開始から5年後に、家庭での冷蔵庫の利用実態に合わせて、2温度帯にリニューアルした。
1989年、平成元年11月に始まった、空港たっきゅうびんは、海外旅行者を対象に、家やホテルで預かった荷物を、成田空港のカウンターで渡す商品だ。利用者は空港まで、大きなスーツケースを運ぶ必要がなくなる。関東の直営店で始まり、1990年3月、半年もたたないうちに、全国の取扱店でも受け付けるまで拡大した。
この空港たっきゅうびんとスキーたっきゅうびん、ゴルフたっきゅうびんに共通するニーズに応える商品として、往復たっきゅうびんを発売した。空港などの出先で復路用の送り状を書く手間を省くため、手続きは往路のときにまとめておこなえるようにするなど、きめ細かに仕組みを整えた。これらのサービスは、レジャーや旅行を、手ぶらで楽しむことを可能にした。
1983年、昭和58年には、海外へ配達する、国際たっきゅうびんに乗り出した。現地法人のあったアメリカ、7都市と、香港、シンガポールで開始した。やがて、他エリアへのニーズが激増したため、 UPS 社と業務提携して、 UPS たっきゅうびんを発売し、エリアを拡大していった。
時間対応の新サービス
たっきゅうびんが普及するにつれ、荷物を届けた先の家が留守である場合も多いことがわかってきた。玄関まで持っていって、受け取る人がいなければ、持ち帰らなくてはならない。昌男はそれを、「留守のときに持っていくヤマトが悪い」と考えた。
たっきゅうびん開始当時から、ご不在連絡票を作り、届けた先が不在なら、これを新聞受けなどにいれていた。アンケートでは、荷物を近所へ預けること、預かることを嫌う人が多いという結果が出ていた。そこで、あらかじめ在宅時間がわかっているときには、そこに合わせて配達をし、万一、不在の場合には荷物を持ち帰る。頃合いを見はからって、こちらから連絡し、その日のうちなら20時まで、翌日に持ち越す場合には午前中に配達する。この、在宅時配達制度を1985年に開始した。
さらに、荷物を預かるときに、届ける時間帯の指定を受ける、夜間お届けサービスを、1988年11月に始めた。日中は家を空けがちな人のため、18時から20時の間に届ける選択肢を用意したのだ。これは再配達を減らし、配達効率を高めるものでもあった。
10年後の1998年、平成10年に、このサービスは、時間帯お届けサービスへと進化を遂げる。3月には関東とミナミ東北で、6月には全国で、荷物の届く時間帯を2から4時間刻みで選んでもらえるようになった。また、1996年末からは、労組の協力によって年末年始も営業し、365日、年中無休体制となった。
サイズ変更、新商品の取り組み
たっきゅうびん普及の過程では、荷物のサイズにも利用実態に即した変更がおこなわれた。当初は重量の上限を10キログラムまでとして開始したが、1977年、昭和52年からは、20キログラムまでの取り扱いも始め、 S サイズと M サイズの2本立てでサービスを提供していた。しかし、お客さまからは取扱重量を小さくして、料金を安価にした商品を望む声が寄せられていた。小さくて軽い物を安く運んでもらえるなら、ノートの貸し借りに、もっと使いたいという学生の言葉もあった。
このころ、たっきゅうびんの運賃は、路線トラックが運ぶ商業貨物と同じ基準で決められていた。貨物の最低重量は30キログラムに定められ、運賃もそれ以下のものはすべて同じ。認可の運賃は上下2割の幅が認められており、たっきゅうびんの M と S サイズの差額、100円は法的に問題なかった。しかし、ヤマト運輸はお客さまの利便性をより高める商品として、重量は2キログラムまで、運賃は S サイズより安く設定した P サイズを新たに導入することを決め、 M 、 S 、P サイズの運賃差額を200円とする独自のたっきゅうびん運賃を設定した。そこで、1982年2月、路線運賃の改定申請にあたって、たっきゅうびんを対象とした、べつだて運賃の承認を運輸省に対して求めた。
しかし、その申請は1年間、審議されないまま放置される。「認められない」の一点張りなのだ。ゴウを煮やし、翌、1983年3月には改めて、新運賃の認可を求めた。このとき、6月1日にはその料金表のとおりに運賃を変えるとも公表した。それまでは、新運賃の導入時期も運輸省が決めるのが恒例だったが、そこに疑問を呈したのである。ヤマト運輸は5月17日の朝刊に、6月1日から P サイズの取り扱いを始めるという広告を打った。しかし、運輸省は相変わらずだ。そこで5月31日にも広告を出した。同じサイズ、ほぼ同じデザインで、「たっきゅうびんの P サイズを発売いたします」の大きな文字を「たっきゅうびん P サイズの発売を延期いたします」と置き換えたものだ。運輸省の認可が遅れていることも書き添えた。この反響は大きかった。運輸省の怠惰を指摘する声が上がったのだ。 P サイズの扱いが設定したとおりの運賃で始まったのは、それからわずか約2カ月後の8月15日のことだった。
1980年代の半ばから通信販売市場が拡大し、代金引換のニーズも高まってきた。もともと百貨店配送では、日常的なサービスとして手がけていたものだ。そこで、1986年に、コレクト サービスを発売。代金引換だけでなく、発送してから1週間で通販会社に品代金を支払うという、お客さまと企業の両方のニーズを満足させる新商品として、通信販売市場の活性化に貢献した。