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第1部、100年のあゆみ。物流を切り拓いた、イノベーション

第2章、たっきゅうびん、誕生物語

戦後の混乱を乗り越え、創業者、おぐら やすおみは事業の多角化を進めていくが、関東一円の、ヤマトビンへのこだわりのために、長距離運行の着手には一歩出遅れる。1971年、昭和46年におぐら まさおが社長を引き継いだものの、襲いかかってきたのは第1次オイルショック。新たな一手を模索する中、彼の脳裏に浮かんできたのは、これまで注目されてこなかった個人宅配市場だった。

小口重視の方針を強調し始めたころのおぐら まさお社長。

1. 高度経済成長期を迎えて

長距離路線への参入

ヤマトビンが路線を拡大し、西への路線を大阪へ延伸するための免許申請をおこなったのは1957年、昭和32年1月のことだった。

西濃運輸、日本運送、福山通運などはすでに、東海道路線にトラックを走らせて貨物輸送をおこなっていた。運ばれる荷物は日に日に増え、東海道路線はゴールデンルートと呼ばれるほどだった。一方、それまで、ヤマト運輸は、東西間の輸送を日本国有鉄道 (以下、国鉄、現在の JR グループ) の貨物急行列車に頼っていた。国鉄が東京、大阪間にノンストップ高速コンテナ列車を導入すると、その恩恵にあずかった。地盤のない大阪では、地元の運送会社と提携し、事業を展開していた。ただ、頻発する国鉄のストには悩まされた。

ヤマト運輸が東西間にトラックを走らせなかったのは、「箱根の山の向こうにはお化けがいるから越えてはいけない」とのたとえで、おぐら やすおみが関東平野の100キロメートル圏内の営業区域にこだわったからだ。

じつは、康臣は1946年の時点で、自動車メーカーが試作した10トン車で箱根の山越えの試運転をおこなっている。当時の道路事情は悪く、トラックの性能を、100キロメートルが限界と判断した。康臣が、「越えてはいけない」としたのは、社内で十分な検討を重ねた結果だった。さらに、ヤマト運輸をここまで育ててくれた、関東を中心とした近距離の小口輸送への思いいれもあった。しかし、またたくまに道路の整備が進み、トラックの性能が向上した。それが、いち早くトラックで箱根の山を越えた、他企業の成長を後押ししたのだ。

危ない会社、と名指しされて

箱根の山を越えるのは、そう簡単なことではなかった。ヤマト運輸が東海道路線の免許申請を提出すると、関西の業者から猛反対が起こったのだ。国の運輸審議会は1959年1月に、5日間にわたる公聴会を開催。議論は白熱したが、結論はなかなか出ない。ヤマト運輸がようやく東海道路線の免許を取得したのは、その年の11月28日。まさに国会で東海道の輸送力不足が問題にされたあとだった。

翌年からトラック輸送を開始し、1963年には、大阪の守口と、横浜の綱島にターミナルを設けている。綱島の初代支店長に就任した都築幹彦は、さっそく営業活動を始めたが、出遅れは明らかだった。すでに、多くの企業は、他の運送業者と契約を済ませている。なんとか荷物を増やそうと大口貨物を集めるが、単価が低いため収益は悪化。設備投資も負担になってきた。

ターミナル開設のその年、一冊の本が出版された。神戸大学のうらべくによし教授による、危ない会社 (光文社) だ。センセーショナルなタイトルのその本の中で、陸運業者として、ヤマト運輸が唯一、名指しされている。創業から40年以上がたっている ヤマト運輸は、古く、硬直し、新しいことに挑戦しない企業とみなされていたのだ。

のちにおぐら まさおは当時のヤマト運輸を、「つまらない形式に非常にこだわる会社」だったと述べている。昇進した人がいれば、執務に使う机を特注して新調するなど、合理性に欠ける部分もあったのだ。外部から指摘されてそう気づいたとき、ヤマト運輸はどん底にあった。

戦前から戦後にわたり使用された、ヤマトビン主力車両。

東海道路線の公聴会で申請事由を述べるおぐら やすおみ社長。1959年1月。

大阪市西区川口町に新設した大阪支店。1961年12月。

横浜市港北区綱島東に新設した、綱島ターミナル。1963年。

陸運業で唯一、ヤマト運輸が名指しされた、うらべ くによし、危ない会社 (カッパ ビジネス,光文社,1963年)。

年表の凡例

A. おぐら やすおみと、会社の出来事。

B. 同時代の出来事。

昭和29年、1954年A. ヤマトビン路線長距離化への第一歩として、たいら線の営業開始
B. 青函連絡船洞爺丸遭難事故
昭和33年、1958年A. 本社社屋新築移転。四代目
B. 1万円札発行
昭和34年、1959年A. 東海道路線免許申請について、運輸審議会が公聴会を開催。11月認可となり免許取得
B. 東京で個人タクシー開始
昭和35年、1960年A. 車の塗装デザインを、淡いコバルト グリーンと象牙色の2色に変更
A. 東京、大阪間のヤマトビン路線運行開始
B. 国民所得倍増計画決定
昭和36年、1961年A. おぐら まさお、アメリカのトラック協会年次大会に出席の帰路、UPS 社を見学
B. レジャーブーム到来
昭和37年、1962年A. 初めての長期3カ年計画、第1次安定成長計画、スタート
B. 東京都、人口1,000万人突破
昭和38年、1963年A. 大阪守口ターミナル、横浜 綱島ターミナル竣工
A. 東京証券取り引き所第一部から第二部銘柄に指定替え
昭和43年、1968年A. 第2次3カ年長期経営計画、革新3カ年計画、スタート
A. コンピュータ化に向けて、電算準備室を設置
A. 創業50周年を迎えるにあたり、新制服を決定し、翌年から着用開始
B. 小笠原諸島返還
B. 郵便番号制開始

2. たっきゅうびん、誕生のきっかけ

おぐら まさおの試行錯誤

単価が低く、手間のかかる大口貨物頼みが続き、東西間の長距離トラック輸送が伸び悩む一方で、既存の事業にも陰りが見えていた。

一時期は、ヤマト運輸全収入の2割以上を担っていたこともある国鉄を利用した通運事業は、たび重なるストによって利用者離れを起こしていた。特に1975年の8日間にわたって、ストの権利を求めておこなわれた、スト権ストが決定的だった。そのため収入は全体の1割にも満たない状況になっていた。

百貨店配送は日本経済の高度成長を受けて順調に成長していたが、配送個数が、ある数字を越えた時点で、営業利益が減少に転じ始めた。繁忙期に合わせて増やした拠点の維持費、そこで働く社員の人件費が高くなったからだ。ついには赤字の月も出て、かきいれどきの盆暮れ2カ月の利益で、残り10カ月の赤字を埋めざるを得なくなった。

1971年に父の康臣から社長を引き継いでいた昌男の最初の仕事は、現状からの脱却だった。どうしたら、ヤマト運輸は危ない会社ではなくなり、健全な経営ができるようになるのか。頭を悩ませるうちに、昌男は、他社に差を付けられた市場にこだわるよりも、これまで培ってきたノウハウを生かせる、まったく新しい業態をつくったほうがいいのではないかと考えるようになっていた。

しかし、舵を切るべき方向がわからない。その一方で、1973年の第1次オイルショックの影響で、大口貨物の取扱個数が激減し、1974年には路線事業の輸送量が前年比で25パーセント近く減った。

ヤマト運輸は倒産寸前で、1970年に、ヤマト運輸に入社した、のちのヤマトホールディングス社長、瀬戸かおるは、「名門企業だと思って、はいったが、現場の施設を売却するなど、ヤマト運輸の中身はかなり厳しいと感じた」と後年、語っている。

思いがけないところにヒントが

事業が行き詰まっても、日々の営みは続いていく。昌男はある日、息子のお古の洋服を、離れたところで暮らす甥に送ろうとして、あることに気がついた。便利に送る手段がないのだ。国鉄小荷物や郵便小包という選択肢はあるが、窓口に持っていかなくてはならず、細かなルールを守っての荷づくりが必要だ。日数もかかる。ヤマト運輸はこれを運ぶべきなのではないかと昌男は思った。これとはつまり、家庭から家庭への小さな荷物だ。もともと、ヤマト運輸は百貨店配送などで、小さな荷物を家庭の玄関口へ素早く運ぶことに長けている。しかも、運ぶ荷物はこれに限定する。扱う商品が多ければいいわけでないことは、メニューを牛丼だけに絞り込んで成功した吉野家が証明していた。

なんでも運ぶトラック運送業者からの脱却をはかることが、ヤマト運輸の存続のためにも、世の中のためにもなるのではないか。昌男の頭の中では、のちにたっきゅうびんと呼ばれ、日本の物流を変える画期的なサービスのアイデアが具体化していった。

大阪線8トンしゃ。1960年から、しゃしょくと、塗装デザインを変更。

ヤマトビンの営業所。埼玉県、本庄営業所。

オイルショック後の業績悪化で表紙も白黒印刷になった。ヤマトニュース。1974年11月号、1975年、5、6月号。

百貨店業務の配送拠点として1968年に建設された、江東区東雲、東京配送センターでの作業風景。

3. 社運を賭けた取り組み

個人宅配市場に着目する

家庭から家庭へ荷物を運ぶ。これは、偶発的かつ、散発的な荷物を運ぶということだ。どの家から、どれくらいの量の荷物が出るかは、そのときになってみないとわからない。商業貨物のような、まとまった量も期待できないし、人が住んでいるところなら、どこへでも届ける必要がある。

だから採算がとれないというのが業界の常識で、新規参入をはかる企業がないのは当然のことだった。しかし、甥に洋服を送ろうとした際、既存サービスの質の低さを実感していた昌男は、この市場に大きな可能性を見出していた。

定期的に出される大きな荷物が期待できないなら、こぼれる小さな豆粒を一つひとつ拾うように、家庭から出る荷物を集め、枡を一杯にして密度を高めればいいと考えた。そのためには、ヤマト運輸に荷物を運んで欲しいと思う人を増やすしかない。家庭から荷物を出す側、主に主婦に面倒をしいないよう、地域別均一料金、荷づくり不要、原則として翌日配達など、昌男は、お客さまの立場で、家庭間の小口配送の制度を構想した。

需要を確信し、採算克服を探る

昌男はたっきゅうびんの成功を予感していたが、豆粒を拾って密度を高めるにしても、そこに豆がなければ拾うことはできず、採算はとれないだろうと考えた。そこで、豆の数を数えることにした。郵便小包など既存のシステムに乗って運ばれている小荷物の数は約2億5,000万個と推計された。豆は十分にある。1個当たり500円で運べば、売り上げは1,250億円。ヤマト運輸が屋台骨を立て直すには十分に大きな市場だ。あとは、その豆を、いかにして効率よく拾い上げていくかだ。

サービスを始めても、黙っていては荷物はあつまらないと昌男は考えた。しかし、努力をして集め、損益分岐点さえ超えれば、経費の占める割合は下がり、利益が大幅に増えると見込んだ。

では、まったく新しい物流網の損益分岐点をどのようにして見積もり、それを超えるのか。昌男は、そのヒントをニューヨークの十字路で見つけていた。1973年、昭和48年9月、昌男は2年前に開設された、ヤマト運輸のニューヨーク営業所視察のためにマンハッタンを訪れた。十字路には、アメリカ最大手の運送会社である UPS 、ユナイテッド パーセル サービス社の集配しゃが4台停まっている。各ブロックを1台の集配しゃが担当していることがわかる。それを見て昌男は、集配しゃ1台当たりの収支の総和がネットワーク全体の収支であることに思い至り、集配しゃを適切に配置し、それぞれの集配しゃが損益分岐点突破をめざして、荷物の数を増やすことに注力すればいいと確信した。ネットワーク全体で利益が出るまでの期間は4、5年。それが昌男の読みだった。

ただ、集配しゃがあるだけでは、ネットワークは構築できない。集配しゃが拾った豆を持ち込み、仕分け、送り出す拠点が必要だ。昌男は B C D ネットワーク構想を描いた。 B はベース。航空業界でのハブ空港に相当する。そこに、各地方空港に相当するセンター、 C がぶら下がり、さらにその下に荷受け等を専門におこなうデポ、 D が配置される。家庭から出された荷物は、デポやセンターを経由して、ベースから別のベースへ届けられ、さらにその配下のセンターやデポをとおって、目的地である家庭へ到着するというものだ。

実際に小口配送の試みが始まったのは、1974年10月7日のことだった。こぐちびん の名称で、都内を、20キログラム以内の小口の荷物を、翌日中に配送し始めたのだ。ひとまずは家庭への配送に慣れていた百貨店部が担ったが、翌年には試みを本格的な事業へ昇格させるため、小口配送の業務を専門におこなう拠点も設けた。

1975年9月には、不況かの苦戦から脱するため、小口営業を主軸としたキャンペーンを実施している。社内に通達した社報には、「当社都合は一切排除して、あくまでも客の身になって、顧客の目で、当社商品のサービス実態を直視すること」とある。料金、早さ、集荷や配達の体制、接客などを、使う側の立場で再び見つめ直せと説いたのだ。この社報には、以降、こぐちびんに換えて、たっきゅうびん という名称を使うとも記されている。

たっきゅうびん構想への反対意見

こうした試みをもとに、全国規模のたっきゅうびんを本格的な事業として展開していこうとする昌男の構想に対して、経営幹部の多くは反対した。反対する側にも、もちろん根拠はあった。百貨店配送での経験だ。ヤマト運輸には、百貨店配送が大きな収入源だった時期がある。百貨店配送は中元と歳暮の時期に繁忙期を迎え、この時期に扱う荷物の量はヘイゲツの10倍以上に達する。このピークに合わせた設備と人員を確保し続けるからコストがかさむ。経営幹部はたっきゅうびんでも同じことが起こるのではないかと心配していたのだ。

さらに、家庭からの集荷にも難色を示していた。百貨店配送では手がけたことがない、小口の集荷作業を1個ずつおこなっていくのは大きな負担となり、これも赤字の要因となるというのが理由だった。たっきゅうびんのセールスポイントのひとつとしたい、翌日配達も無理ではないか、せめて、県庁所在地など、エリアを限定すべきではないか、という声もあった。

昌男はそれらひとつひとつに反論した。たっきゅうびんは百貨店配送ほど繁閑の差がなく、せいぜい2倍止まりであろうから、コストはそれほど問題にはならない。翌日配達を保証すれば、それを便利に思う人が使ってくれて、荷物の数は増えるはずだ。そう持論を展開する昌男の頭の中には、この大きな潜在市場を手中に収めるには、どこよりも早く切り込んでいかなくてはならないという思いがあった。

ヤマト運輸がたっきゅうびんを始め、収益が上がるようになれば、必ず他社が真似る。そこで利益を得られるのは先行者だけ。なぜなら、いち早く事業を始めた者だけが、いち早く市場からの声を聞けて、それを改善につなげられるからだ。

すでに昌男の心強い支援者として、都築幹彦が路線部長から取締役に抜擢され、役員会議にも同席していた。昌男が会議を中座すると、都築は周囲の役員から、「たっきゅうびんに反対するように」と囁かれた。都築はそのとき、「社長がやると言っているのだから、いいじゃないですか」と反論。昌男の防波堤になろうと必死の思いだった。

労働組合の協力

社長がやると言っているのだから。その思いは、組合員をたばねる労働組合 (以下、労組) の幹部の心中にもあった。そのころ、労組は、それまでは何度か実施していたストをしなくなっていた。理由は、事務と労務の定年と賃金体系を一本化して欲しいという強い要望に昌男が理解を示してくれたこと、さらに、1973年の第1次オイルショックの影響で輸送需要が激減したときにも、社員は解雇しないと約束し、それを守ってくれていたからだ。労組幹部は、昌男を信頼していたのだ。

だから、たっきゅうびんで新局面を開きたいという昌男の話にも理解を示した。ただ、すべての組合員がそうだったわけではない。経営幹部が心配したように、一軒一軒の家庭からの集荷は楽な仕事ではない。大口貨物に慣れていた社員の中には、新しい仕事に不安を覚える者がいるのは当然のことだった。しかし、それに挑戦しなければ、ヤマト運輸は危ない会社、という、かつての指摘を的中させることになりかねない。都築は、当時の労組委員長だった、あいはら誠と話し合いを重ね、組合員のとりまとめを依頼した。都築と あいはらは、かつて綱島支店長と労組の分会長として、同じ職場で仕事をしていた仲で、気心も知れていたのだ。

労組幹部には、昌男がたっきゅうびんに社運を賭け、立て直しをはかろうとしているのが痛いほどわかっていた。ただ、それ以上に、組合員の不安や苦労も理解している。会社の側にばかり立つわけにはいかない。

その思いが強かった、あいはらは、団体交渉の場で会社が組合員をどれだけだいじに考えているのかをはかった。組合員のかかえる不安が、公用シャで通勤している役員に本当に理解できているのか、と、率直な思いをぶつけたのだ。すると昌男は、それでわかってもらえるのなら公用シャを廃止すると即答し、実際に翌日から電車での通勤を始めた。

それを見て あいはらはすべてを察した。この社長の行動力と熱意は真剣そのもので、たっきゅうびんへの取り組みの遅れは、この会社にとって致命傷になる。労組はたっきゅうびん事業への取り組みを了承し、後述するワーキンググループに副委員長を参加させるのと並行して、反対していた組合員への説得に取り組み始めた。

了承という決断は間違っていなかった。 あいはらがそう実感したのはそのご、たっきゅうびん事業が始まり、定着してからだ。激励のために訪れた茨城県で、「たっきゅうびんを始めて本当に良かった」という組合員の声を聞いたのだ。最初は反対していた組合員も、小さな荷物を届けて感謝されるこの仕事にやりがいを見出していた。

こうして労組の賛同を得ることはできたが、まだ安心はしていられなかった。運輸省から路線免許を認可されなければならないし、郵政や国鉄と戦わなければいけなかった。たっきゅうびんは、始めただけでは意味がない。最終的には事業として成功させる必要があった。

たっきゅうびん開始に向けて

昌男は労組の了承に先立ち、1975年8月の役員会で、自らまとめた、たっきゅうびん開発要綱を提出した。そこには、基本的な考え方として、以下が掲げられている。1、需要者の立場に立ってものを考える。2、永続的、発展的システムとして捉える。3、他より優れ、かつ均一的なサービス レベルを保つ。4、不特定多数の荷主または貨物を対象とする。5、徹底した合理化をはかる。

これに基づいて、具体的なサービス内容を固めていったのが、9月に社内で結成されたワーキング グループだった。さまざまな部署から集められたメンバーは10名ほどで、最年少は入社5年目の瀬戸カオル。当初は、不特定多数の利用者の立場に立つとはどういうことか理解できなかったという。しかし、繰り返し、昌男から、めざすものを聞かされているうちに、どういった商品をつくるべきなのか、少しずつ理解を深めていった。

検討の結果、たっきゅうびんでは3辺の長さが合計1メートル以内で重さが10キログラムまでの荷物を扱うと決まった。重さ10キログラムとしたのは当時の郵便小包の上限が6キログラムだったのでそれを超えたかったからだ。仮に20キログラムとすると、これから増えていくであろう、女性の運転手には重すぎることも気になった。

国鉄小荷物や、郵便小包の場合は、荷札を用意したり、ひもでしっかりとくくりつけなければならなかった。そこでより手軽に、荷物は段ボールにはいっているか、紙でつつんで、ゆわえてあればよいものとする。こうして窓口へ行くたびに、荷づくりや荷札の不備を指摘されるのでは、と躊躇していたお客さまなど、荷物を出す側のハードルをぐんと下げた。

荷物を遠くの窓口へ持って来てもらう必要はない。電話をもらえれば、小さな荷物一つのためにも集荷へ行く。家で待てない人には、取次店へ預けるという選択肢を用意する。

配達は翌日。数日かかることが当たり前の郵便小包に比べると圧倒的に便利になるうえ、単に早い、と、うたうのと、翌日配達を宣言するのとでは、インパクトが異なる。翌日配達を約束できれば、多くの豆を集められるに違いない。

運賃は運輸省が定める、路線トラック運賃を遵守しなくてはならない。従来、20キログラムまでの荷物を、100キロメートル圏内に運ぶ際の最高運賃は200円とされていた。これでは新たな事業を起こしたとしても、さすがに採算がとれない。ところが1974年7月、最高運賃が500円に改定された。物価上昇の折、この改定は半ば予想していたものだったが、たっきゅうびん開始に向けての決め手となった。

そこで、たっきゅうびんのサービス区域内での運賃は500円均一とした。このころ、東京都の最低賃金、時給は258円だったので、およそ2時間分に相当することになる。地域をまたぐ場合の運賃はこれよりも高くなるが、一枚の紙にわかりやすくまとめた。運賃が安く、わかりやすいことは、利用者にとっても、合理的に事業を進めたい側にとってもメリットだ。複雑な運賃体系は誰にも喜ばれない。

たっきゅうびんがいよいよ開始

こうして、電話1本で集荷、翌日配達、を打ち出したたっきゅうびんは、まずは関東一円を対象に、1976年1月20日に始まった。小口びんの試行からわずか1年3カ月後の船出だ。これを機に、運転手の呼称をそれまでの集配員から、セールスドライバー (以下、SD ) へと改められた。

社運を賭けた ヤマト運輸のこの取り組みを、競合他社は冷ややかな目で見ていた。生産性が低すぎて上手くいかないという、さんざん社内でされてきた議論と同じ見方をしていたのだ。昌男は意に介さなかった。そしてその問題を、まずは収益には目をつぶり、豆の数を増やしていくことで乗り越えようとした。利用者が増えれば、遠くない将来、必ず損益分岐点を超える。その信念を社内に浸透させるため、「サービスがさき、利益はあと」、と言い続け、いくら経費がかかっても、それがサービス向上のためなら決して文句を言わなかった。

ここで、たっきゅうびんという名称にも言及しておく。これは前述のように、小口配送の試みの際に、社報で通達された呼称で、昌男が要綱をまとめるときにも用いて、それがそのまま商品名として定着したものだ。

昌男はもともと、ネーミングは商品化の仕上げの大事な部分を担うと考えていた。それだけにたっきゅうびんは、字面が固く、音が卓球を連想させることもあって、別の名称を付けようと社内公募を実施したこともある。ハニーライン、トゥモローサービス、クイックサービスなどが候補に挙がった。しかし結局は、実態をよく表していて、すでに社内で定着しつつあった、たっきゅうびんの名が残り、開始時にはユーピーエス社にならった、ワイピーエスという名称とともに、ワイピーエス、ヤマト パーセル サービスのたっきゅうびん、として、チラシや、車に掲げられた。

当時、営業部長だったおぐら まさおは、1961年にも UPS 社を訪れており、その仕組みに刺激を受けたことを綴った、ヤマトニュース、1961年4月号。

1975年8月15日に通達された社報には、たっきゅうびん の名称が記載されていた。

百貨店配送繁忙期の仕分け風景。

ヤマトニュース、1975年1月号の座談会での都築幹彦常務。

小口配送業務の案内チラシ。百貨店の配送所を拠点とした運行計画図も掲載。1974年9月。

1976年の労使交渉。右端に あいはら まこと 労働組合中央執行委員長。

路線トラック運賃早見表。1974年7月12日、認可。上は従来のもの。91から100キロメートルで、20キログラムの荷物の普通運賃は、最高200円、最低170円。下は1974年のもの。81から100キロメートルで、20キログラムまでの普通運賃は500円。

発売直前に本社6階でおこなわれた、たっきゅうびん会議。1976年1月14日、手前左は、招集した関東支社の各店所長全員に説明する、都築幹彦常務。

たっきゅうびん発売初日の様子。ヤマトビンの荷物と一緒に運ばれた。1976年1月20日、深川営業所。

基本方針、特色などが記されたマニュアル、たっきゅうびんの御案内。1976年1月。

たっきゅうびんのサービス内容を説明する藤枝支店の SD 。1976年、静岡県。

最初のチラシは社員の手がき。1976年1月。当初は、YPS のたっきゅうびん、と呼称。

たっきゅうびん発売当時に使用した集配シャ。

たっきゅうびん発売当初の個数集計表。初めて集計した1月23日の個数は11個だった。

最初の営業案内。1976年3月。

関西支社で作成した、たっきゅうびん 営業案内。関西支社での発売は1976年5月1日。

年表の凡例

A. たっきゅうびん誕生までの出来事。

B. 同時代の出来事。

昭和44年、1969年A. フレート ライナーの取り扱いを開始。汐留、梅田間
A. 路線部関係集計業務のコンピュータによる社内計算開始
B. 東大安田講堂事件
昭和45年、1970年A. 三越百貨店の配達に伝票をカバーする、デリバリーパックを開発し、使用開始
B. 大阪万博開催
昭和46年、1971年A. 島原鉄道より、大阪、福岡、長崎間の路線事業譲渡
A. 第3次、5か年長期経営計画、物流革新に挑戦、スタート
A. ヤマト運輸五十年史、刊行
A. おぐら まさおが社長に就任
A. 運転者手帳を作成し、配布
A. 百貨店配送作業にロール ボックス パレットを導入
昭和47年、1972年A. 女性ドライバーを採用。福岡支店に5名
B. 沖縄返還
昭和49年、1974年A. ネコ トータル システム、運用開始
A. 都内、および首都圏配送区域内において、小口配送業務開始
B. コンビニエンス ストア第1号店、開店
昭和50年、1975年A. 役員会において、たっきゅうびん開発要綱 (基本方針)、提案
A. 小口営業キャンペーン実施。以後、たっきゅうびんの名称を使う
A. ワーキング グループを結成し、たっきゅうびんの実施要領草案作成開始
B. 完全失業者、100万人突破
昭和51年、1976年A. 関東地区において、たっきゅうびん、発売
B. 郵便料金値上げ。ハガキ20円、封書50円
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