1. 人と競わず、とき と競う
育まれた商人の心がまえ
小倉ハチサブロウは、1889年、明治22年に東京、銀座、数寄屋ばし交差点近くの、江戸時代から続く、原料紙問屋の分家に生まれた。八人目の三男ということでハチサブロウと名付けられたが、1930年、昭和5年2月に康臣と改名。父、善兵衛は温厚な人柄で人望があり、母、もと は勝ち気であったという。その両親のもと、康臣は物心つかないうちから、商人の心を育んだ。
小学校では自分が納得するまで先生に質問し、商工中学へ進学すると、算数と英語を得意科目とした。薩摩琵琶を習うために かよっていた東京、芝の天徳じ では、忘れられない体験をしている。
あるとき、僧侶から、「人間とはなんぞや」との問いかけをされたことがあった。康臣は即座に、「あとさきを考える生き物なり」と答え、自分の口から出た言葉に驚いたが、僧侶は、「よいかな、よいかな」とその答えを褒め、人間の生命や、生き方についての法話を始めた。現在を説くなら過去をかえりみよ、将来を夢見てそれに向かえ。この話は康臣少年にとって、きわめて強烈であり、そのごも、頭から消えることがなかった。
しかし、長兄が継いだ家業が看板を下ろすことになり、康臣は学校を辞めざるを得なくなる。ただ、長シの嫁ぎ先の しんたんしょう や横浜の織物工場などで仕事をしながらヤガクにかよい、数学と英語の本は肌身離さなかった。
1914年、大正3年、ついに、康臣は自ら事業を起こす。譲り受けた大八ぐるまで野菜を売って歩く、引きやおやを始めたのだ。仕事が軌道に乗り、生活も安定してきたころ、康臣は知人の紹介で、五つ年下の はなと結婚。以降、はなは、1939年、昭和14年に、やまいで急逝するまで、康臣をナイジョの功で支え続けた。
スピードの時代を予見
引きやおやは繁盛し、1916年、大正5年には東京、麻布に店舗を構えるまでになった。屋号は万両屋。しかし、康臣にとってやおや商売は、あくまで将来、納得して邁進する仕事をするための、資金集めの手段にすぎなかった。若い人が商いに加わると定期的に会合を設け、「人間は前進するのが基本で、足踏みは退歩である」などと話し、自らの将来を切り拓いていく英気を養っていった。やがてカラダにしみついた、商人としての心がまえと才覚で、計画よりも早く、目標額であった資金1万円を達成すると、康臣の関心は、何を生涯の事業とすべきかに注がれた。労働を中心とし、近代的な仕事を興したいとは考えていたが、何をするかは決め切れておらず、1919年5月ごろからは、やおやの仕事は昼までに、終え、午後は情報収集に当たるようになった。ちょうど第1次世界大戦の影響で日本経済に好景気が到来して、新時代の交通機関である自動車が増加しつつあった。そこで、康臣は、親戚や知人を頼って、バスの運営会社や、自動車メーカーに足繁く かよい、修理や分解まで見学し、自動車についての知識を深めていった。
そのころ、そのごの運命を左右する出来事に遭遇する。1919年9月から、わが国で初めての交通整理がおこなわれ、ぎゅうばしゃは銀座大通りをとおれなくなったのだ。大八ぐるまだけでなく、ぎゅうばしゃに親しんでいた康臣にとって、これは大きな衝撃だった。自動車が堂々と行くさまを見て、もとより、ときに負けるな、を信条とし、人と競わず、ときと競う、という心がまえでいた康臣は、これからはスピードの時代だ、と直感し、あらためて自動車に強い関心をいだいた。銀座の大通りからはぎゅうばしゃが閉め出されたとはいえ、まだまだ道路を使っての貨物輸送の中心は、ぎゅうばしゃと荷車が担っていた時代のことだった。
トラックによる貨物輸送で起業
新事業を模索しつつ、自動車の研究にも余念がなかった康臣。そんな彼の思いをつたえきいた友人が、ある人が立案したトラック運送会社の設立目論見書を持ち込んできた。一読後、まさに自分の思いと合致し、これこそが生涯の事業だと確信した康臣は、この計画を買い取り、1919年11月29日、30歳の誕生日に、トラックによる貨物輸送をおこなう株式会社を創立した。前日には、営んでいた万両屋に、出世御礼の貼り紙をして、在庫ひんを売り切り、退路をたっている。社名は、ヤマト運輸株式会社。資本きんは10万円で、康臣自身が負担をしただけでなく、周囲に出資を募ったところ、大戦後の好景気が続いていたこともあり、順調に集めることができた。このころ、トラック運送業者のほとんどは個人事業であったが、康臣は株式会社としてスタートを切った。その理由は、生涯の事業は会社組織でおこないたいと考えていたこと、会社を拡大するには、多数の資本参加の方法が有効であること、株式会社とすれば、資本と労働の権利義務がはっきりすること、人の力を総合的に生かすには会社組織が望ましいと考えていたことが挙げられる。
そして何より、資本主義の生んだ株式会社という新しい形態に、パイオニアであろうとする康臣自身が、強くひかれていたからであった。
ヤマト運輸と名付ける
ヤマト運輸という名は、康臣がかつて働いていた、長シの嫁ぎ先である しんたんしょうの屋号、ヤマト屋にちなんだ。買い取った目論見書には、交際運輸、とあったが、それは康臣の意にそぐわず、新会社設立に向けての事務所を山登屋の2階に置いていたこと、ヤマトの国といえば、かつてこの日本を指していたことが気にいっての命名だった。また康臣は自身を社長ではなく、専務取締役とした。社長という響きは、上り詰めた最終段階との思いがあり、30歳の自分にはまだ早過ぎるとも、どこか恥ずかしいとも感じていたからだ。社長には、ジシの夫、谷村たんしろう に就いてもらった。ともあれ、小倉専務率いる ヤマト運輸は、その第一歩を踏み出した。創業の日は秋晴れ。創立総会は、銀座、朝日倶楽部の2階で、おごそかに開催された。出席者は10名ほどで、みなが和服に身をつつむ中、康臣だけが、当時流行の先端を行くフロックコートを身につけていたところにも先駆者精神が見て取れる。
初代本社は京橋区 ひがし とよたま かし 41号地、現在の銀座3丁目の木造瓦ぶき2階だての家屋を、かりいれた。従業員 (のちに社員と改称) は計15名。そのうち運転手とその助手が8名という陣容だ。トラックは、デンビー 2トンしゃと、フォード 1トンしゃの2台。営業は1919年の年末に始まり、さらに1トンしゃ2台が加わった。運賃はにばしゃが、いちにち、6、7円であるところを、3倍近くの17、18円に設定したため、周囲からは、ぜいたくな輸送と見なされたが、主に官公庁に納める石炭の運送に使われた。少ないながら、輸送の早さを求める顧客はすでにいたのだった。